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第八章 信を生きる by OSHO, (07)

(…これこそが仏陀の平安、全面的静寂だ。)


達成すべき何物もなく、達成する その者もいない。
行くべき所もなく、行く その者もいない。
あらゆるものが 空だ。

突然、努力のすべてが 消える。
あなたは どこへも向かっていない。
あなたは 笑い出す。
あなたは この空虚を楽しみ始める。

そうなれば、楽しみを妨げる物など何もない。
そして、あなたの上に 至福が降り続ける。


 もし、存在が 空なるものと感じられたら、もう誰にも あなたの至福を乱すことはできない。

なぜなら、それを乱す者が存在しないからだ。
それは あなただ。

あなたの 二元性 故に、あなたは 掻き乱される。

あなたは恋をする。
すると、憎しみがやって来て、その憎しみが 掻き乱す。

あなたは 美しくなりたい。
すると 醜さが入って来て、その醜さが掻き乱す。

あなたは いつまでもいつまでも 生きていたい。
すると 死が扉を叩き、その死が掻き乱すのだ。


 もし、そこに 対立物が隠れているのが分かったら、突然、人は もうどんなものも 求めなくなる。

何物も探さない。
なぜなら、自分が何を求めようと、その反対の物が やって来ることを知っているからだ。

権威を、尊敬を求めれば、あらゆる所から 侮辱がやって来る。

花を求めれば、あらゆる所から 茨が降りかかる。

人に知られることを求めれば、人に忘れられる。

王座に つこうとすれば、手ひどく投げ出される。


 何を求めようとも、その反対が与えられる。
それなら、求めることに 何の意味がある。
何のために求めるのかね。

欲望は 満たされるかも知れない。
だが、驚くことには、それが満たされる頃には、その反対のものが もう手元に届いている。

目標は達成した。
だが 達成した時には、涙を浮かべて泣くことになる。
なぜなら、その終着地には 反対のものが隠れているからだ。
どこであれ、自分の望んだ所に到達することだろう。
だがまさに その到達そのものが 幻滅になる。

この空しさが 空しさとして見えた時、「利己心の努力はすべて止む」のだ。

何を苦労して求めることがあろう。

達成しようとする欲望(マインド)は 落ち、塵の中に 消える。


 “疑いと不決断は消え、

 信を生きることができる。”


 これが違いだ。
僧サンの これらの言葉は、中国語で『信心銘』と呼ばれている。

キリスト教徒、回教徒、ヒンドウー教徒にとって、この「信心」の何たるかを 理解するのは極めて難しい。
理解しようとしてみなさい。

これは「信」というものの最も深い理解だ。


 普通、教会や寺院で 説かれているもの、キリスト教徒や回教徒、ヒンドウー教徒が 語っているのは「信」ではない。
信念だ。

神の 存在に対する信念だ。
だが、あらゆる信念が それぞれ疑いをはらんでいるというのに、どうやって人に信ずることなどできよう。

だからこそ 人は 絶対の信念 を強調するのだ。


 「私は絶対に信じる」と言う時、人は 本当は何を言っているのだろう。
なぜこの「絶対に」が、この強調が あるのだろうか。

それは、どこかに疑いが 隠れていることを示している。

そして その疑念を、その「絶対に」という言葉で、「全面的に」という言葉で、その強調で、隠そうとしているのだ。

あなたは 誰を騙すつもりなのか。
あなたは 自分を 騙しているのだ。

その強調は、それと反対のものが どこかに隠れていることを示している。


…(08)に続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所