読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

第八章 信を生きる by OSHO, (06)

(…彼は決して「一」とは言わない。
というのも、どうして「一」と言えよう。)


「一」しかないのなら、どうしてそれを「一」と言えるかね。
「一」が 意味を持つためには「二」が必要だ。

もし、二番目の、二つ目の可能性がないのなら、それが ひとつだということに何の意味がある。

シャンカーラは言う。
「最大限、私に言えるのは、それが『二』ではない ということだ。
それを積極的に『一』だとは言えない。
真実が 何でないかは 言うことができる。
それは『二』ではない。

私は それが何であるかを言うことはできない。
なぜなら意味や言葉は すべて役に立たないからだ」と。



 “そのような二相が在ることをやめれば、”


 愛が、憎しみと 別のものには 見えなくなったら、愛に どんな意味を与えたらいいのか。

辞書は 僧サンによっては書かれ得ない。
私に辞書を書くようにと言っても、私にはできない。
それは不可能だ。
というのも、私は愛に どんな意味を与えたらいいのか。

愛と憎しみが別なもの、いや別どころか反対のものであって、初めて辞書は可能だ。

そこで、愛は憎しみではない、と書ける。
憎しみを定義しなければ ならなくなれば、愛ではない と言うことができる。


 だが、僧サンなら どうするだろう。
愛とは何かと 訊けば、僧サンは愛を どう定義するだろう---何しろ、愛は憎しみでもあるのだから。

彼は〈生〉を どう定義するだろう---生は 死でもあるのだから。

彼は子供を どう定義するだろう---子供は 老人でもある。

彼は美を どう定義するだろう---美は醜でもある。
境界は消える。
そうなると、何ひとつ定義できない。

なぜなら、定義には 境界が必要であり、また定義は 対立するものに依存しているからだ。

あらゆる定義は 対立に依存している。


 男とは 何かと問えば、「女ではないもの」と言えばいい。
それで定義されたことになる。

だが もしあなたが、僧サンを見、その人を理解したら、あらゆる男は 女であり、あらゆる女は 男でもある。

これが事のありようだ。
今では、心理学者も その事実を発見している。

      • 男も女も両性具有だということを。

あらゆる男性は、内に 一人の女性を隠している。
そして あらゆる女性は、自分の中に 一人の男性を隠している。
彼らは そこにいる。
どんな女性も、ただ女性ではない。
そんなことは あり得ない。

また、女性を秘めていない どんな男性もあり得ない、女性が そこにいる。
この存在の中には、何ひとつ対極なしにはあり得ない。


 人は両親から 生まれる。
その一人は 男性、一人は女性だ。
人は 自分の中に、その両親を 半分ずつ持っている。
これは そうでなければならない。
生まれて来るのに他に道はない。

人は女性だけから 生まれて来るのではない。
もしそうだったら、人は ただ女性であるだけだろう。

人は父親だけから生まれて来るのではない。
もしそうだったら、人は ただ男性であるだけだろう。

人は、男性と女性という 二元性から 生まれて来る。
両方が 貢献している。
あなたは その両方なのだ。


 それが 厄介の種になる。
というのは、思考(マインド)が 女性のことを考えると、常に 女 ら し さ を思うからだ。

だがあなた方は 女性を知らない。
いったん、女性が凶暴になったら、どんな男性よりも 凶暴になる。
女性が怒れば、どんな男も敵わない。
もし女性が 憎んだら、どんな男も 彼女ほどには 憎めない。


 なぜだろう。
彼女の中の 女性は、表面に出ていて 疲れているのに、その男性は 常に休息していて、よりエネルギーに溢れているからだ。

だから女性が 怒れば、常に どんな男よりも物凄い。
それは、これまで ずっと休んでいた男性が 機能し始めたからだ。

また、一人の男が 明け渡したら、あるいは 愛を抱いたら、彼は 必ずどんな女性よりも 女性的になる。
その時には、いつもは 休息し秘められている 常に新鮮で若々しい女性が 浮かび上がって来るからだ。


 ヒンドウーの神々を見てごらん。
ヒンドウー教徒は 正しい。
彼らには 二元性というものが 実によく分かっている。

あなた方は カーリー母神の絵姿を 見たことがあるだろう。
彼女は 非常に凶暴な女性だ。
首には 頭蓋骨の首輪をぶら下げ、片手には 血のしたたる頭を持ち、その他に 武器を持つたくさんの手を持っている。

彼女は シヴァの妻であり、シヴァを下に横たえて、自分は その胸の上に立っている。


 西洋人が、初めてこのシンボルについて考え始めた時、彼らは当惑し、質問した。
「どうしてあなた方は この女性を『母』と呼ぶのか。
彼女は むしろ死のように見える」と。

だがヒンドウー教徒は、母は その手に死も持っていると言う。
もし母親が 誕生を与えるのだとしたら、誰が死を---その対極を---与えるのか。

母が誕生を 与えたのだから、その母が 死も与えるべきだ、と。
そうでなければならない。


 母なるカーリーは、恐ろしい破壊性と創造性の両方だ。
彼女は 母性であり、創造の力であると同時に、死、破壊の 力でもある。
彼女は シヴァを愛している。

しかし彼女は 彼の胸の上に 今にも殺さんばかりにして立っている。

だが、これが〈生〉の本質だ。

愛は 殺し、誕生は 死になり、美しさは消えて 醜さが やって来る。あらゆるものが その対極の中に消え入り、その中に溶け込む。

あらゆる論理が 空しく見え、思考(マインド)は 目眩を起こす。


 “そのような二相が在ることをやめれば、”


 そして人が そのすべてを見通した時、それらは、ただ 在ることをやめる。

なぜなら 愛は憎しみ だからだ。
正確な言葉は「愛憎」だ。
一語であって 二語ではない。

正しい言葉は「生死」だ。
一語であって 二語ではない。

正しい言葉は「男女」「女男」だ。
一語であって 二語ではない。
二つで 一語だ。


 だが そうなったら、
一元性も また消える。
存在を やめる。
そうなったら、〈生〉が ひとつだと言うことに どんな意味があるだろう。
「二」が消えたのだ。
目覚めとともに「一」もまた消える。


 僧サンが、そして 仏陀の流れを汲む者が 皆、人が 真理に目覚めれば、それは「一」でもなければ「二」でもない、それは空(くう)だ、と強調するのは そのためだ。

もうあなた方にも、なぜ彼らが シュンニャータ、空、と言うのかが 理解できるだろう。

すべてが 消える。
「一」が消えれば「二」も消えるからだ。

そうなれば 何が残るか。
何も 残りはしない。
あるいは ただ無だけが残る。
あらゆるものが 無だ と分かる時の、あらゆるものが 無になる時の、この 無こそが 光明の究極の高みだ。


 “このような究極の地には、

 どんな規則も描写も当てはまらない。

 道に遊ぶ、ひとつになった心において、

 利己心の努力はすべて止む。”


 この空の中で、あなたは 何を達成しょうと言うのかね。
目的地が どこにある。
そして探す者は 誰で、また探される者は 誰なのか。

達成すべき目標などない。

達成者に なり得る者など 誰もいない。
かくて あらゆる努力が止む。


 これこそが 仏陀の平安、全面的 静寂だ。


…(07)に続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所