第八章 信を生きる by OSHO, (05)

(…自分の掌にのせられるような小さな石ころでさえ、その全体を見ることはできない。)


 どんなものでも、思考(マインド)には その全体を見ることはできない。

私は あなたを見ている。
だが あなた方の背中は隠れている。

あなた方は 私を見ていて、私の顔は見えるが、背中は見えない。
だから、あなた方に 私の全体が見えたことは 一度もない。
私の背中が見えれば、顔は 見えなくなるからだ。


 思考(マインド)が 何かの全体を見る という可能性はまったくない。
見えるのは 半分だけだ。
あとの半分は 推測するしかない。

それが 当然そこにあるに違いない というのは推測だ。
裏がないのに どうして表だけあり得よう、というわけだ。
だから我々は、裏側が あるのだろう、あるに違いない と推測する。


 だがもし、事柄の両面が 一緒に見えたら、目眩(メマイ)が起こらずにはいない。

もし、人が それを耐えることができ、それを 通り抜けることができたら、その時には 明晰性がやって来る。すべての雲は 消える。

ダーヴィッシュ-ダンス(旋舞)の狙いは要するに、思考(マインド)に 目眩を与えることだ。

やり方は たくさんある。
マハービーラは 極めて論理的な手段を使った。
七重の論理だ。
それこそ まさにダーヴィッシュ-ダンスのようなものだ。人に めまいを起こさせる。


 非常に知的な人なら、そういう人には マハービーラの方法は実に素晴らしい。
それは人に 目眩を起こさせ、すべては めちゃくちゃになる。
本当に 何も言えなくなる。
黙らざるを得ない。

何を言おうと、不合理に見えて、すぐさま否定し続けなければならない。
そして すべてを陳述し終わってみると、何ひとつ言明されてはいない。
すべての言明が それぞれ矛盾し合っているからだ。


 このマハービーラの七重の論理は、まさに思考(マインド)の ダーヴィッシュ-ダンスのようなものだ。
人に 目眩を起こさせる。

ダーヴィッシュ-ダンスは 思考(マインド)に目眩を起こさせるための 肉体的な方法、そしてこれは 思考(マインド)に目眩を起こさせるための 観念的な方法だ。

 激しい踊り、急速な動き、急回転の旋舞をしていると、突然、まるで思考(マインド)が 消えて行くような、ある目眩を、吐き気を感じる。
それでも 続けていれば、数日の間は目眩が続くが、それから治まる。
この目眩が 治まった瞬間、人は 思考(マインド)が 無くなっていることに気がつく。

目眩を感じる当人が いなくなっているからだ。

それから、ある明晰性がやって来る。
その時 人は 思考(マインド)なしに物事を見る。

思考(マインド)が なければ全体が顕われる。
そして その全体とともに変容が起こる。


 “そうすれば、動なる姿も、静なる姿も、ともに消える。

 そのような二相が在ることをやめれば、

 一そのものも止まり得ない。”


 いいかね、私たちが「一」という言葉を使えば、それも 二元性の 一部になる。

「二」がないのに、どうして「一」が あり得よう。

ヒンドウー教徒が 一元性という言葉を決して使わないのは そのためだ。

存在の本質は 何か、と シャンカーラに尋ねれば、彼は「不二」、「アドヴァイタ」、「二ではない」と言う。


 彼は 決して「一」とは言わない。
というのも、どうして「一」と言えよう。


…(06)に続く
NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所