saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章 信を生きる by OSHO, (04)

 “静かなるものの中の動くものを
 動くものの中の静かなるものを想え。”


 何かが静止しているのを見ても、騙されてはいけない。

それは静止していても、何かは 既に動いている。
今や 科学者達は、あらゆるものは 動いている、この静止した壁や 岩さえも動いている、と言っている。

あまりにも速く 動いていて、その原子の動きが あまり速くて、その動きは 目には見えない。
静止して見えるのは そのためだ。


 その動きは 極めて速い。
まさに光と 同じ速さだ。
光は 一秒間に、十八万六千マイル進む。
これが原子の 移動速度だ。
円を描いて、この狂気のような速さで回わるものだから、それは 静止して見える。


 何ひとつ 静止してはいない。
そして、何ひとつ 絶対的に 動いているものもない。
あらゆるものが その両方だ。
何かが動き、何かが静止している。

そして 静が、あらゆる動の 基盤としてとどまる。

静止しているものを見て、騙されてはいけない。
内側を 見れば、どこかに、既に 動きが起こっているのが見つかるはずだ。
もし 何か動いているものが見えたら、動かないものを 探してみなさい。
いつでも そこに見つかるはずだ。

それは 絶対に確かだ。
なぜなら、ひとつの極は、それひとつでは 存在できないからだ。


 私があなたに 杖を 一本渡して、この杖には 片方の端しかない。
もう一方の端はない と言ったら、あなたは そんなことは あり得ない と言うはずだ。
片方の端が あるのなら、もう一方の端もあるはずだ。
隠れては いるかも知れない。
しかし、杖に 一方の端しかない ということはあり得ない。
必ず もう一端がある。

始まりがあるなら、終わりも なければならない。


 これが仏陀が 言い続けていることだ。
「生まれたものなら、死ななければならない。
生まれたものは、すべて死ななければならない」と。

始まりが 一方の端なら、その終わりは、杖の もう一方の端はどこか。
それは必ず あるはずだ。

生まれたものは すべて死ななければならない。

作られたものは、すべて壊される。

つなぎ合わされたものは、すべて ばらばらになる。

あらゆる出会いは 別れだ。

到着は すべて出発だ。


 両方を同時に見なさい。
そうすれば、思考(マインド)は その場で消える。ちょっと目眩(メマイ)を感じるかも知れない。

何しろ、思考(マインド)は 論理的境界とともに、論理的明晰性とともに 生きてきたのだから。
あらゆる区別が 消えたら、あらゆるものに 隠れている対極が 見えたら、思考(マインド)は 目眩を感じる。


 その目眩(メマイ)を 許しなさい、それを 起こさせるのだ。

じきに その目眩は消えて、新しい智恵に、新しい経験に、新しい真実の 物の見方に落ち着くだろう。
真実に対する この新しい展望こそが 全体だ。

そして、この全体に向かっては、人は 空っぽだ。
それについては、どんな意見もない。

今や、あらゆる意見が 偽りになることを、知っているからだ。



 マハービーラに、「神は いるのですか」と訊いた者がある。

するとマハービーラは言った。
「イエス。ノー。そしてその両方だ」

その男は当惑して 言った。
「私には意味が 分かりません。イエスかノーかの どちらかにして下さい。
全部一緒に言われては 困ります」

マハービーラは言った。
「今 言ったのは 三つの観点だけだ。
もし、あなたが全部を 訊きたいのであれば、私には あらゆることについて 七つの観点がある」


 そして、実際マハービーラには それがある。

まず彼は「イエス」と言う。
ひとつの観点だ。
真理というのではない。ひとつの観点だ。

それから彼は「ノー」と言う。
真理というのではない。もうひとつの観点だ。

それから彼は「イエスとノーの両方」と言う。
第三の観点だ。

それから彼は「イエスとノーの両方でない」と言う。
第四の観点だ。

それから彼は「イエス プラス イエスとノーの両方」と言う。
第五の観点だ。

「ノー プラス イエスとノーの両方」。
第六の観点だ。

「ノー プラス イエスと プラス、その両方でない」。
第七の観点だ。


 観点は 七つあり、それで物事が 全体になるとマハービーラは言う。
彼は 正しい。
だが思考(マインド)は 目眩を感じる。

だがそれは こちらの問題で、彼の問題ではない。
彼は正しい。
というのも、彼の言うところでは、「イエス」と言えば、それは常に半分だからだ。
ある意味で 物は存在している。
だが、ある意味では、それは既に 非存在に到る途上にある。


 「この子は 生きているか、死んでいるか」と 言うとする。

彼は生きている、「イエス」だ。
だがマハービーラは、その子は すでに死に到る道を歩み出している と言う。
彼は 死ぬだろう、その死は 確実だ。

だから、それに言葉で 触れておいた方がいい。
さもないと、その陳述は、半面の真理、つまり 偽りに過ぎなくなる。


 そこでマハービーラは言う。
「ある意味ではイエスだ。 その子は生きている。また、ある意味では ノーだ。
なぜなら、その子は 死につつあるからだ」と。

死につつあるだけではない。
実際のところ、その子はすでに 死んでいる。
その子が 生きている以上、死が そこに隠れているのだから。
それは 彼の 一部だ。
そして このために、彼は次の 第三の言明を付け加えた方がいいと言う。
「イエス、ノーの両方」と。


 だが、一人の子供が、死んでいてかつ生きている、などということが どうしてあり得よう。
死は 生を否定しており、生は 死を否定している。
このために、マハービーラは次の 第四の立場を導入する。
「イエス、ノーの両方でない」と。

これが彼の やり方だ。
そして彼が、その七重の陳述を 終えた頃には、人は最初に 彼に質問した以上に混乱してしまう。
だが それはその人の問題だ。

マハービーラは 思考(マインド)を捨てよと言っているのだ。
思考(マインド)には 全体を見ることができないからだ。
それは 一度に ひとつの面しか見られない。


 こんなことを意識したことがあるだろうか。
私が 小石を ひとつあげたとして、あなたは その小石全体を見ることができるだろうか。

いつ どう見ても、あなたには 一面しか見えない。
その裏は 隠れる。

もし その裏側を見れば、今度は 最初の部分が隠れる。
自分の 掌にのせられるような 小さな石ころでさえ、その全体を 見ることはできない。


…(05)に続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所