第八章 信を生きる by OSHO, (03)

(…非論理的なことが 入って来るのを許したら、それは思考(マインド)を完全にしめ出す---思考(マインド)は落ちる。)


 〈生〉の 馬鹿らしさを見たら、矛盾を通して動く その〈生〉のやり方、対立物を通して生きる その〈生〉の やり方を見たら、人は思考(マインド)を 捨てなければならなくなる。

思考(マインド)は 明瞭な境界線を 必要としているのに、〈生〉には そんなものはない。
〈生〉以上に、存在以上に 馬鹿げたものなど何も見つからない。

両極を 一緒に見たら、不条理こそが その言葉だということが分かる。


 人と会えば、人と会うのは ただ別れるために過ぎない。

人が好きになれば、好きになるのは ただ嫌いになるためだ。

幸せなら、幸せなのは ただ不幸の種を蒔くために過ぎないのだ。

これ以上 馬鹿げた状況など 思いつけるだろうか。
幸福を望んだら、既に不幸も 望んでしまっているのだ。
今や、人は 絶えざる苦悶のうちにあることになる。


 どうすればいいのか。
思考(マインド)に できることは 何もない。

もし両極を 一緒に見たら、思考(マインド)は ただ消え失せる。
そして思考(マインド)が 消えれば、〈生〉は 不条理には見えない。

その時、〈生〉は ひとつの神秘になる。



 これが理解されなければならない。
〈生〉が不条理に見えるのは 思考(マインド)が あまりにも論理的だからなのだ。
〈生〉が 荒々しく見えるのは、人が あまりにも長く人工の庭に住んでいるからだ。
森に入ると、森は荒々しく見える。
だが それが荒々しく見えるのは 比較のせいだ。

〈生〉が そうなのだ ということを理解しなさい。
〈生〉とは、常に 対立するものが含まれる そういうものなのだ。


 人が好きになれば、憎しみが 入って来る。
友達になれば、ひとりの 敵が生まれている。
幸福になれば、どこか背後から、後ろの戸口から 不幸が入って来ている。
束の間の 歓びの後には、たちまち、涙し、泣き叫ぶことになる。
笑えば、その 笑いのすぐ後ろで、涙が 出番を待っている。

では どうしたらいいのか。
何ひとつ できることなどない。
これが 物事のありようなのだ。


 僧サンは「動くものの中の 静かなるものを見よ」と言う。

彼が言っているのはこのことだ。
彼は、何か動いているものを 見る時は、その中で 何かが 静止していることを覚えていなさい、と言っているのだ。

そして あらゆる動きは、静止に至る。
どこへ行くと言うのかね。

人は 走る、人は 歩く、人は動く。
どこに向かっていると言うのか。

ただ どこかで休むため、どこかに腰を下ろすために過ぎない。

人は、ただ どこかで休むために 走っているに過ぎない。
だから 走ることは 休息に至る。
つまり 動は静に至る。


 そして、その静は 既に そこにある。
走ってみてごらん。
自分の中の 何かは走っていない。

それは 走ることが できない。
自分の意識は 静止したままだ。

人は 世界中を 動き回わるかも知れない。
だが、内側の 何かは、決して動かない。
それは 動き得ない。

そして あらゆる動きは その不動の中心を根拠にしている。

人は、ありとあらゆる状況と感情に巻き込まれるかも知れない。
だが、自分の 内の何かは、それには関わらず、巻き込まれないままだ。

この関わりあいの 全人生は、決して 関わることのない その要素 故にこそ可能なのだ。


 人を愛して、できるかぎりの 愛を注ぐ。

だが 内側 深くでは、何かが超然と、独り離れたままだ。

それは、そうでなくてはならない。
さもなければ、あなたは 失なわれてしまう。

愛着の中にあっても、何かが 超然としたままだ。
そして愛着が 大きければ大きいほど、自分の 内なるその超然たる 一点の感覚は大きくなる。
なぜなら、対立物なしには 何ひとつ存在できないからだ。
物事は 対立を通して 存在する。


 “静かなるものの中の動くものを

 動くものの中の静かなるものを想え。”


…(04)に続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所