第八章 信を生きる by OSHO, (01)

 
 “静かなるものの中の動くものを、

 動くものの中の静かなるものを想え。

 そうすれば、動なる姿も、静なる姿も、ともに消える。

 そのような二相が在ることを止めれば、

 一そのものも留まり得ない。

 このような究極の地には、

 どんな規則も描写も当てはまらない。

 道に遊ぶ、一つになった心において、

 利己心の努力はすべて止む。

 疑いと不決断は消え、

 信を生きることができる。

 一撃の下に軛は断たれて、

 一切は止まることなく流れ、

 また記憶する者もいない。

 すべては空にして明瞭、

 心力を労することなく、自ずから光明を放っている。

 ここではもう、思考も、感情も、知識も、想像力も何の価値もない。

 静かなるものの中の動くものを、

 動くものの中の静かなるものを想え。

 そうすれば、動なる姿も、静なる姿も、ともに消える。”



 これは最も 基本的なことのひとつだ。
できるだけ深く理解しようとしてごらん。

思考(マインド)は ひとつの極しか見ることができない。
だが真実は ふたつの対極を含んでいる。
思考(マインド)は ひとつの極端しか見えない。
その ひとつの極端には もう一方が隠れている。

だが思考(マインド)は それを見抜くことができない。

そして、両極を 同時に見ないかぎり、決して事のありようを見ることはできない。
何を見ても それは偽りになる。
それは半分になるからだ。


 いいかね、真理とは 全体でしかあり得ない。
もしそれが 半分なら、それは 嘘より もっと危険だ。
というのは 半面の真理には、真理ではないのに、真理であるかのような感じがあるからだ。
人は それに騙される。

真理を知るとは、あらゆることにおいて、その全体を知ることだ。


 例えば、動くものが見えるとする。
何かが 動いている。
だが その動きは、その中に隠されている動かないものを 抜きにして可能だろうか。
その中に 動かないものがなかったら、動きは 不可能だ。


 車輪が動く。
しかし、その車輪の中心は 動かないままだ。
車輪は その不動の中心を 根拠に動く。
もしその 車輪しか見ないとしたら、半分しか 見ていないことになる。
そして、その半分は 極めて危険だ。
もし心(マインド)の中で、その半分を 全体にしたら、人は観念の幻想世界に落ちることになる。


 ある人を愛するとする。
人は決して、その愛の中に 憎しみが隠れていることを見ない。
が、それはそこにある。
好むと好まないとにかかわらず、そこにある。

愛すれば、そこには必ず その対極の憎しみがある。
愛は憎しみがなくては存在できないからだ。
それは 好みの問題ではない。
それは そうなのだ。


 愛は 憎しみなしには存在し得ない。
人を 愛している時、人は その同じ人を憎んでいるのだ。

だが、思考(マインド)には その一方しか見えない。
思考(マインド)が 愛を見ている時は、憎しみを見ることを やめてしまう。

憎しみが 表面に出て来て、思考(マインド)が その憎しみに執着している時には、愛を見ることをやめてしまう。

そして、もし思考(マインド)を 超えたいと思うなら、人は その両方を一緒に見なければならない。
その両端を、両方の極を。


 ちょうど時計の 振り子のようなものだ。
振り子が右に振っている。
目に 見えるのはすべて、振り子が 右に動いている ということでしかない。

だが そこには 目に見えないものもある。
それは、振り子が右に 動いている間、左へ振るべき勢いを 集めているということだ。

それは はっきり目に見えることではない。
だが、じきに それを見ることになる。


 ひとたび その端まで来れば、振り子は 反対の端に向かって動き始める。
左へ 振り始める。
そして、右へ振った時と ちょうど同じだけ、左の端にまで 振り進む。
左へ振っている間、人は また騙されるかも知れない。
それが左へ向かって 動いているのを、見ることになる。
だが 目に見えない内側では、振り子は、すでに 右へ振るべきエネルギーを集めているのだ。


 愛している間、人は 憎しみのエネルギーを集めている。

憎んでいる間、人は 愛するためのエネルギーを集めている。

生きている間、人は 死ぬためのエネルギーを集めている。
そして、死んだら、人は 再び生まれるためのエネルギーを 集めることになる。


 もし〈生〉だけを見ていたら、あなたは 見逃す。
〈生〉の 至る所に隠れている死を見なさい。
そして、もし〈生〉の中に隠れている死を 見ることができたら、あなたは その逆も見ることができるようになる。
つまり、死の中に〈生〉が 隠れていることも。

そうなれば 両極は消える。
その二つが 一緒である姿を見れば、それと同時に 思考(マインド)も消える。
なぜだろう。

それは、思考(マインド)とは 部分的でしかあり得ないもの、決して全体ではあり得ないものだからだ。


 もし、愛の中に隠れている 憎しみが見えたら、あなたなら どうするかね。
憎しみの中に隠れている 愛が見えたら、あなたなら何を選ぶ。

選択は 不可能になるだろう。
なにしろ、自分が愛を選んでいるのを 見れば、それと同時に 自分が憎しみを選んでいるのが 見えるのだから。
愛する者が、どうして憎しみを選べよう。


 選べるのは、憎しみが はっきりと 見えていないからだ。
人は愛を選び、それから、何かの偶然で 憎しみが起こるのだと思う。

だが、愛を選んだ瞬間、人は 憎しみを選んでしまっている。

〈生〉に しがみつく瞬間、人は 死にしがみついているのだ。

誰も 死にたい者はいない。
それなら、〈生〉に しがみつかないことだ。
〈生〉は 人を死に導くものだ。


〈生〉は 両極性の中に存在する。
だが思考(マインド)は 一方の極にしか存在し得ない。

…(02)へ続く

Neither this nor that by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所