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「信心銘」by OSHO, 第七章、⑩

 
 “もし、ひとつの眼が眠らなければ、

 一切の夢は自ずから止む。

 もし、想いがどんな区別もしなければ、

 万物は、その あるがままで、

 ただひとつの精髄の顕われになる。”



 もし、ひとつの眼が眠らなければ----。

この二つの目は いつか眠らなければならない。
これは 肉体の一部で、肉体は 永遠のエネルギーではないからだ。

それは ひとつの合成物であって、根源的な力ではない。
たくさんのものが そこに結合されている。

それは ひとつの機械装置だ。
生物機械だ。
それは絶えずエネルギーを 摂り込まなければならない。
食物、水、空気。
エネルギーが創られ、燃料が創られ、肉体が機能する。

それは ひとつの機械だ。

あなた方の目は いつか疲れる。
機械は すべて疲労するものだからだ。


 近年、機械も 休息を必要とするという、極めて重大な発見がなされたことを知れば、人は驚くかも知れない。機械がだ。
そんなことは 考えもしなかっただろう。

どうして機械が、機械には休息など要らないはずだ。

自動車を 二十四時間、あるいは 三十時間 運転すると、その自動車は 休まなくてはならないというのだ。

人は 不思議に思うはずだ。
どうして、自動車に休息が要るのか、自動車には 心(マインド)などない、自動車は 意識ではない、なぜ休む、
何もかも うまく行っているのなら、いくら 乗り続けてもいいはずだ、と。

 それは 間違っている。
今では、機械が いつ疲れるかを 判定する方法もある。

そして自動車が 疲れるのは、あらゆる機械は 疲労せずにはいないからだ。
自動車を 車庫の中に 一、二時間 入れておけば、その間に、その車が次に、いつ走ってもいい状態になるか調べる装置もある。


 あらゆる機械は 休息を必要とする。
人の肉体ばかりではない。
あらゆるメカニズムが 休まなければならない。
その間に それは生きかえる。

ただ意識だけは どんな休息も必要としない。
なぜなら、それはメカニズムではないからだ。
それは 燃料を 必要としない。
それは 永続的エネルギー、永遠のエネルギー、原因のない エネルギーだ。
それは 常にそこにある。


 それが 僧サンが 単数形を使っている理由だ。

「もし、ひとつの眼が眠らなければ」、 と。

さもなければ、「もし両目が」と言っただろう。

僧サンが 言っているのは 第三の眼のことだ。

こんなことに 気づいたことがあるかね。
肉体が 眠っている間にも、少し 気をつけて見れば、自分の中で何かが、ずっと起きているのが 分かるはずだ。
ぐっすり眠りこけている間にも、何かが----それが何か、はっきりとは分からないかも知れない----だが、あなたの中の どこかの 一点が目撃者として止まっている。


 人が 朝になって「夕べは 実によく眠れたよ」と言えるのは そのためだ。

もし、本当に眠りこけていたのなら、そんなことを 誰が知っていよう。
ぐっすりと 眠っていたのだから、どうして そんなことが分かるかね。

朝になって、それが 深い、素晴らしい眠りで、夢も見なかった と言えるのは、誰が 見ていたのか。

時には「よく眠れなかった」と言うこともある。
夢ばかり見て よく眠れなかった、と。
誰が 知っているのか。
誰かが 絶えず 見つめているのだ。



 これこそが、絶えず目覚めている 第三の眼だ。

それは 瞬きもしない。
それは 常に、瞬きもせずに 見守っている。
それは 瞼を持たない。
決して 閉じることがない。

第三の眼とは 単なる 象徴的言い方に過ぎない。
第三の眼とは、あなたの中には、ある永遠の視力、永遠の見張り、決して 眠ることのない目撃者がいる ということだ。

しかも、それ は決して眠ることがないから、決して夢見ることもない。
なぜなら、夢を見る とは、眠りの 一部だからだ。

その第三の眼が 真理を見ることができる。
そこには眠りもなく、夢を見ることもないからだ。


 人は、自分の中にある、決して 眠ることのない その眼を 探し求めなければならない。

これこそが 探求のすべて、道を求める者の 努力のすべてだ。
真理とは、どこか外側に あるのではない。

問題のすべては、自分の中にあって、決して眠らず、決して 意識を失わず、常に油断なく 覚めている、その 一点を いかに見出すかにある。

それこそが、あなたの中にある、神からの 光だ。


 そして ひとたび、その常なる警戒の光を 見出せば、その光を たどって、源そのものへと旅することができる。

その源が神だ。

もし、一条の光を とらえることができれば、人は、太陽に、その まさに源に到ることができる。
人は ただ旅をしなければならないだけだ。

それが 自分の道に、小径になる。


 内なる目撃者を 見つけたら、人は、道を発見したのだ。
今度は、もっともっと、もっともっと、その覚醒に なるがいい。

自分のエネルギーのすべてが、その覚醒の中に 流れて行くのを許すのだ。
すると、目覚めれば目覚めるほど、ますます夢を 見なくなる。



 突然、自分が その目撃者でしかない という瞬間が来る。

思考(マインド)は 消えてしまった。
思考(マインド)の全エネルギーは、その 第三の眼の中に解体している。

二つの目は 消え、今や人は ただ、一人の目撃者であるだけだ。

この目撃している自己こそが、そこから世間が消え、〈神性〉が 開示される 一点だ。

…⑪に続く

「信心銘」by OSHO,
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所