「信心銘」by OSHO, 第七章、⑧

(…ここには大学者もいる。だがその人たちは、自分の学識で一杯になっている。
アーナンダもいる。だが彼は、私に対するあまりにも多くの愛情と執着で一杯になっている。
このマハーカシャップはただ空っぽだ。
空っぽの家だ。彼は消えてしまっている」と。
彼は雲を呼び寄せたのだ。)


 だが、弟子達の態度を見るがいい。
彼らは、そこに何かがあるはずだ と考えたに違いない。
「なぜ仏陀は あんなにマハーカシャップに愛着なさるのだろう。
なぜ言葉では言えないものを我々には下されなかったのだろう。
なぜ マハーカシャップを最も偉大だとされたのだろう」と。

 だが、覚えておきなさい、道(タオ)の人、光明の人というのは、ただ 雲のように流れる。

彼には 好きも嫌いもない。
なぜなら、それらはすべて、夢見るエゴに属するものだからだ。


 “安心も不安も迷いの故だ。

 光明とともに、好悪は消える。

 すべての是非は、無知なる解釈によって起こる。

 夢のようなもの、

 空中の華のようなもの、

 捕らえようとするのは 愚かなことだ。

 得だとか、正しいとか、間違っているとか、

 そのような思いは、一瞬にして止むべきものだ。”


 この「一瞬にして」という言葉を、覚えておかなければならない。
この言葉を 深く届かせなさい。

物事は 二つのやり方で なされ得る。徐々にか、あるいは、一瞬にかだ。

もし徐々にやったら、これは 決してなし得ない。
なぜなら、少しずつやったのでは、後を引くからだ。

 例えば、あなたが 腹を立てていて、自分の怒りについて悩んでいるとしよう。

ずっとそれが 癖になっていて、「そのうち、徐々に卒業しよう」と あなたは言う。
どうやって、そのうち徐々に卒業などできるかね。

あなたが その練習をしているうちに、また その練習をすればするほど ますますそれは 根づいてしまうからだ。

人は、時間が必要だ と言う。
それで どうしようというのか。


 せいぜい、それを もっと洗練して、上品にできるくらいのものだ。
誰一人 あなたの怒りに気がつかなくなるかも知れない。
あなたは それを隠せる。
だが、その時間で何をしようというのだ。
もし それが間違っていると分かっているなら、なぜ徐々になどと言うのかね。

どうして すぐにではないのか。

何かが 間違っていると分かったのなら、どうして時間がかかる。
また、もし理解していないのなら、理解もなしに、どうやって それを徐々にやろうというのか。

そして、そうするうちにも、怒りはやって来る。


 せいぜい、それを和らげることができるだけだ。

だが、和らげた怒りは、怒りでなくなるわけではない。
それは やはり怒りだ。

微妙に 修正することは できるだろうが、怒りは やはりそこにある。

まるで怒りの 正反対になったようにさえ見え始めるかも知れないが、やはり怒りはそこにある。

誰一人 そこに怒りがあるなどとは 気づかないかも知れないが、あなたは それがあることを、いつも知っている。


 そうではない。
理解とは 常に瞬時のものだ。

理解しているか、理解していないかの どちらかだ。

もし理解していないのなら、どうやって それを卒業などできる。

もし理解しているなら、どうして少しずつなどと言うのかね。

もし理解しているのなら、今すぐに、この場で それを捨てなさい。



 ある時 一人の国王が、両手に花を持って 仏陀の所にやって来た。

仏陀は、花を見て、「それを捨てなさい」と言った。

そこで その男は左手の花を手離した。
彼は、左手で仏陀の所に花など持って来ては いけなかったのかも知れない と考えたのだ。

というのも、左手は 正しくない手 と考えられていたからだ。

右手は 正しい、左は 正しくない。
左手で物を 手渡したりはしないものだ。

そこで彼は、申しわけなかったと思いながら、それを手離した。

仏陀は 笑って、また、「それを捨てなさい」と言った。

そこで彼は、右手も 手離さなければならなかった。
だが、今度は 彼には分からなくなった。

そして、その両手が空っぽになると、仏陀は 高らかに笑って、また、「それを捨てなさい」と言った。

さあ、もう何も落とす物がなかった。

そこで彼は、あちこちを見回した。
どうすれば いいんだ。

アーナンダが言った。
仏陀は 花を捨てよと おっしゃったのではない。
花を持って来た その人を、捨てよと おっしゃったのです。
花を捨てても 何も起こりません。
どうして ご自分を捨てないのです」

その男は理解し、仏陀の足元に 身を投げ出した。

彼は 自分の宮殿に再び帰ることはなかった。


彼の所の総理大臣がやって来て言った。
「何をなさっているのです。
たとえ出家なさりたいにしても、万事 片がつくまで、もう少し時間を下さい。
お戻り下さい。
お妃様や お子様、王国と その政が待っています。
もう少し我々に時間を下さい。
たとえ出家することに お決めになるにしても、なぜ そんなに お急ぎになるのです」

その男は言った。
「人が理解する時、それは瞬時にだ。
理解していなければ、いつでも引き延ばす」



 無知だけが 引き延ばす。
そして無知は 引き延ばすことによって 大変なごまかしをやる。
あなたは、自分が分かったと思う。
それにしても、今すぐ できるわけはない、と。
あなたは それを少しずつやろうとする。
これこそが決してやらないためのごまかしだ。
これが そのごまかしなのだ。
「明日やることにしよう」というのが。


 考えてもごらん。
人は 怒る時には、すぐ怒る。
しかし、愛を感じる時には、それを引き延ばす。
誰かに 何か贈り物をしたいと思う時には、人は引き延ばす。
しかし、怒りたい時には、その場で 怒る。
それを 引き延ばしたら、二度と その機会がなくなることを、よく知っているからだ。

この延期が ごまかしだ。
心の奥深くでは、これで、それを やらなくてもよくなったのだと知っている。

だが 表面では、自分は それをするつもりなのだと、信じ続ける。
だから、人は自分を 騙しているのだ。


 僧サンは「そのような思いは ついには一瞬にして止むべきものだ」と言う。

時を与えてはならない。

もし何かが 間違っているなら、それを見抜いて、捨てるがいい。

本当は、捨てる必要などない。
もし それを見抜くことができたら、それが 間違っていると感じたら、それは自動的に 落ちる。

それを 持っていることは できなくなる。


 人が それを持っているのは、それが間違っていると納得していないからだ。

もし、自分が それを納得していないのなら、「私は これが間違っているとは思わない。
だから私は これを持ち続ける」と 言った方がいい。

そうすれば 少なくとも、正直でいられる。
そして正直は いいことだ。

不正直であっては いけない。


 人々は、私の所にやって来て「ええ、貪欲が悪いのは 分かっています----でも そのうち」と言う。
だが これまでに、そのうち、貪欲を 捨てられた者など いるかね。

そうするうちにも、それは もっと深く根を下ろし続ける。

それに、今すぐ、即座に捨てることができないなら、なぜ貪欲は悪いなどと 言うのか。
「私は 悪いとは感じない。
私は いいことだと思う。
悪いことだと感じたら、私は それを捨てる」と言いなさい。
少なくとも あなたは 正直で誠実だ。

そして 誠実な人間は いつか理解に到達する。
不誠実な人間は 決して理解に到ることはできない。


 あなた方は皆、怒りは悪い と言う。

それなら、なぜそれを 持ち運ぶのか。
誰が それを強制しているのかね。

知識とは変容だ。
もし、本当に 怒りが悪いと分かったら、人は 一瞬たりとも それを持ち運びはしない。
即座に捨てる。それは突然だ。

それが起こるのに 時間はいらない。

一瞬たりとも 費やされることはない。

だが、あなたは ずる賢い。
自分は 知っていると思う。
が、あなたは 知らないのだ。

あなたは 自分が知っているのだと 信じたい。
そして、少しずつ 自分を変えようとしているのだと 信じたい。
が、決して あなたが変容することはない。
変容は決して 段階的なものではあり得ない。

常に 即座のものだ。


…⑨に続く

「信心銘」by OSHO,
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所