「信心銘」by OSHO, 第七章、⑦

(…まわりには無数の人間がいるのに、その誰とも競争している。人は気が違ってしまう。こんなことは不可能だ。決して、満足を感じるような瞬間に到達することはできない。どうやって、そんな瞬間が可能になるかね。たとえ皇帝でも---。) 


 こんな話を聞いたがある。
ある時、アレキサンダーが 壁にかけてある 一枚の絵に 手を伸ばそうとしていた。

その絵が ちゃんと掛かっていなかったので、まっすぐにしようとしたのだが、彼は絵に手が届かなかった。
何しろ、アレキサンダーは 小男で、たったの 五フィート五インチしかなかったからだ。

護衛の一人が----その男は 七フィートもある大男だった----すぐに手を伸ばして、その額を まっすぐにした。
だが、アレキサンダーは 傷ついた。
恐ろしく傷つけられた。

 その護衛は言った。
「大王様、このようなことでしたら、いつでも お言いつけになって下さい。
私の方が、あなたより大きいですから」

 アレキサンダーは言った。
「余よりも大きい。 違うぞ!
背が高いのだ。大きいとな。違う!」

 そして、アレキサンダーは、自分より 背の高い人間を見ると----たくさんの兵隊が 彼より背が高かったので、どうしても そうならざるを得なかったが----いつでもひどく、侮辱されたように感じたものだ。


 全世界を 手に入れても、乞食の方が自分より 背が高いかも知れない。
それだけで、全世界は失われ、自分は つまらない人間になる。

皇帝になっても、乞食の方が、自分より歌がうまいかも知れない。
人は 何もかも全部所有するわけにはいかない。
自分が何を持っていても、それでは満足できない。

欲望は、エゴは、常に満たされることはない。


 好きも 嫌いも 自我(エゴ)故にある。
そしてエゴは ひどく苦しむ。

エゴが なければ、それは 好き嫌いの問題ではない。
人は、この世を そよ風のように動く。

北へ行こう などとは思わない、どんな好きも嫌いもない、どこであれ、自然が 連れて行く所へ行く。
手離しだ。

自然の流れが 北へ向かえば、風は 北へ向かって吹く。

自然が変化して 南へ向かって流れれば、風は 南へ向かって吹く。

風には 自分の選択などない。



 道(タオ)の 人には、自分の選択はない。

河が 流れて行く方へ、どこへでも 一緒に流れて行く。
決して 河を押したり、それと闘ったりはしない。
彼には選択はない。

好きも嫌いもない。

理解できないために、彼にも 好き嫌いがあるように 思われるかも知れない。

あなた方は、この雲が 北へ向かって 動いているのだと思うかも知れない。
この雲が、自分で選んで、自分で北へ向かうことを決めて、北に向かっているのだ と解釈することもできる。
だが それは違う。
雲には どんな選択もない。


 雲は、どこへ行かなければならないこともない。
雲には 宿命はない。

それはただ、全自然が そちらへ向かっているから、そう動いているだけだ。

雲が 選んだわけではない。

その選択は 全体のものだ。

好きも嫌いも、全体まかせだ。

雲の知ったことではない。

雲は 何の心配もしていない。

そして どこであれ、着いた所が 目的地だ。

前もって 決めてある目的地など 何もない。
どこであれ、着いた所が 目的地なのだ。
そうなれば、どこにいようと、そこに満足がある。


 だが思考(マインド)は それ自身の法則に従って解釈し続ける。

あなたが 仏陀のような人の所へ行けば、彼にも、好き嫌いがあると感じることになる。
が、あなたは 間違っている。
なぜなら、あなたは自分の 頭(マインド)に合わせて 彼を解釈しているからだ。

時には、彼が北に 向かっていることもあるだろう。
すると、それは 彼が選んだに違いない と言う。
さもなくて、どうして、北なのか、と。

また 時には、彼が誰かに、あなたに向ける以上の 注意を向けることもある。

するとあなたは、彼が そうしようとしたに違いない と考える。
さもなくて どうしてなのか、そうでないはずがない、そうでないなら、どうして自分に 同じような注意を向けないのか、と。
が、私は あなた方に言う。
彼は 選んでいない。
ただ 全体が それを決めたに過ぎない。

彼は もはや決定者として存在していない。

彼は まさに雲のようなものだ。


 もし、彼が ある人に より多くの注意を払っているとしたら、それはただ、雲が流れるように、その注意が そちらの方へ向かったに過ぎない。

あるいは、その相手の必要が大きかったのかも知れないし、その相手が より空っぽで、より多くの注意を引いたのかも知れない。

ちょうど、地面に穴を掘れば、その穴が 水を引き寄せるようなものだ。
水は 低い方へ流れるものだからだ。

その人が、より瞑想的であれば、仏陀は より多くの注意を払うだろう。

だがいいかね、それは 注意を払っているのではなく、引き寄せられているのだ。
それは素朴で 自然な現象だ。
それは 彼の選択とか、好き嫌いではない。


 仏陀は 沈黙のメッセージをマハーカシャップ(摩可迦葉)に 伝えた。
彼は 一輪の花を与えた。

すると誰かが
「しかし なぜ摩可迦葉なのですか。なぜ 他の者ではないのでしょうか」と尋ねた。

なぜなら、そこには、もっと他に尊敬されている弟子達がいたからだ。

シャーリプトラ(舎利弗)も そこにいた。
彼は 主だった弟子の中でも 最大の一人だった。
国中に その名を知られ、彼自身、一人の導師だった。

彼が 仏陀に帰依するためにやって来たときには、五百人の弟子を率いて来た。
自分達の師が 帰依したために、彼らは すべて仏陀に帰依したのだ。

彼は有名な学者だった。
なぜ そのシャーリプトラではないのか。


 またどうして、アーナンダ(阿難陀)ではないのか。

彼は、四十年間というもの、あたかも影のように仏陀に従い、あらゆる面で 召使いのように仕えて来ている。

また彼は 仏陀の従兄弟でもあり、同じ王族に属していた。
なぜ そのアーナンダではないのか。

あるいは、なぜモドガラヤン(目ケン連)ではないのか。
彼もまた 数千人の人達に尊敬されている偉大な学者ではないか。


 それにしてもなぜ、これまで全然知られてもいない、まったくの無名の人物 マハーカシャップなのか。

誰ひとり 彼のことなど考えたこともなかったし、彼については 誰も、この出来事以外には 何も知らない。


 ある朝 仏陀は、一輪の花を持ってやって来ると 沈黙のうちに立った。
そして沈黙のまま 座につくと、花を見たまま 口を開こうとしなかった。

人々は そわそわと落ち着かなくなった。
彼らは 説教を聴きに来ていたからだ。

するとその時、マハーカシャップが声を出して笑った。
仏陀は 彼を呼び、その花を 彼に手渡し、一同に言った。
 「言葉になし得ることは すべて、私は あなた方に与えた。
 そして、言葉に なし得ないものを、私は今 マハーカシャップに与える」

 これが マハーカシャップについて 知られている唯一の出来事だ。
これ以前には 彼は何者でもなかったし、またこれ以後も 彼については何ひとつ伝えられていない。

なぜその マハーカシャップになのか。


 これは 選択ではない。
もし それが選択だったら、シャーリプトラが それを手にしていたことだろう。

それは 好みではない。
それが 好みの問題だったら、アーナンダが それを受け取っていたことだろう。

他の選択は あり得ないと、仏陀は言った。
それを受け取ることが出来たのは、マハーカシャップ一人しかいなかった。

ただ 彼一人だけが 沈黙し、理解したのだ。


 仏陀は こう言ったと 伝えられている。
 「たとえ、彼が笑わなかったとしても、私が 彼の所へ行って、手渡しただろう。
なぜなら、たった一人 彼だけが、ここに集まった一同の中で 虚ろで、空っぽだったからだ。
ここには大学者もいる。
だがその人たちは、自分の学識で 一杯になっている。
アーナンダもいる。
だが彼は、私に対する あまりにも多くの愛情と執着で一杯になっている。
このマハーカシャップは ただ空っぽだ。
空っぽの家だ。
彼は 消えてしまっている」と。

彼は 雲を呼び寄せたのだ。


…⑧に続く

「信心銘」by OSHO,
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所