「信心銘」by OSHO, 第七章、④

 (…瓦をひとつ取り除けば、家全体が すでに瓦解への道を踏み出している。)


 昼のあいだ夢を見ずに 物事を見ることができたら、夜にも、夢は 少しずつ少なくなっていく。
なぜなら、夜とは、昼間の反映に他ならず、同じものの継続だからだ。

昼間が変われば、夜も変わる。
あなたが 覚めていれば----。
覚めているとは、夢を見ていない ということで、目を開けて坐っている という意味ではないが----。


 イエスは弟子に「目覚めよ」と言い続けた。
だが彼らは いつもイエスの前で眠っていたのだろうか------絶え間もなく。

何しろ イエスは毎日「目覚めよ」と言っていた。

仏陀も弟子たちに毎日「目を覚ましなさい」と教えていた。

 なぜだろう。
彼らは あなた方と同じように、目を開けてしゃんとしていた。
だが、仏陀やイエスは、「目覚めよ」と言い続けた。
彼らは、夢を見てはいけない、ここ にいなさいと言っていたのだ。
どこにも行ってはいけない。
過去の記憶の中に行けば、夢を見ている。
未来へ、想像の中へ入って行っても、やはり夢を見ている。

今、ここに いなさい。
そうして初めて、夢を見ていないのだ、と。

 現在の中に、夢はない。
現在の中に、思考(マインド)はない。

現在の中には、あなたがいて、真理がある。

そして、あなたと真理の間に どんな隙間もない。
なぜなら、両方が真で、そこに境界はないからだ。
あなたは、真理の中に融け込み、真理は、あなたの中に融け込む。
あなたはブラーフマになり、ブラーフマはあなたになる。

夢を見ることは、自分のまわりに垣根を作ることだ。
目には見えないが、微妙で、強力な垣根だ。


 ではこの経文に入ってみよう。

 “安心も不安も迷いの故だ。

 光明とともに、好悪は消える。”


 人はなぜ好きになるのか、そしてなぜ嫌いになるのか。
あるものが 好きになったり、あるものが 嫌いになったりするのは、どうして起こるのか。
どんなふうにこの分割は起こるのだろう。

 この好きと嫌いの仕組みを 深く考えたことがあるだろうか。
それは、考えてみるに値することだ。

人は「私は この人が好きだ、あの人は嫌いだ」と言う。
なぜだろう。
ある日、突然、この人は嫌いで、あの人が好きになり始めている。
どうしてだろう。
どんな仕組みになっているのだろう。
人が ある人を好きになるのはなぜだろう。


 もし ある人が、あなたに あなたの自我(エゴ)を強化することを許してくれたら、その人が好きになるのだ。

その人が スクリーンになって、自分が夢を見るのを助けてくれれば、あなたは、その人が好きになる。

自分の見ている夢と合えば、その人が好きになるのだ。
もし、その人が 自分の見ている夢と合わなかったら、自分が夢を見続けるのを許してくれなかったら、あなたは、その人が嫌いになる。

それどころか、むしろその人が邪魔をし、合わせず、スクリーンの役を 引き受けてくれず、受動的でなく、能動的になったら、その人が嫌いになる。

あなたが好きなのは、何でも自分の好きな夢を見させてくれるような、そういう受け身のスクリーンなのだ。


 グルジェフの最大の弟子、ウスペンスキーは、『奇蹟を求めて』という自著を「私のあらゆる夢を破壊した人へ」という献辞とともに、師に捧げた。

だが人は、自分の夢を すべて破壊するような人を 決して好きになりはしない。

ウスペンスキーでさえ、グルジェフを離れなければならなかった。
そして晩年には、二度とグルジェフに会うことはなく、自分独自の活動を始めた。
最後には 彼はグルジェフの敵として死んだ。


 この人こそ夢を破壊する人だ、と感じることのできた ウスペンスキーのような意識の人でさえ、彼を離れなければならなかった。

人はそれを感じることがある。
だが、誰かが本当に 自分を破壊し、破壊し続けたら、人はその人間を 敵だと感じる。


 真の導師は、いつでも敵のように見える。
そして、これが、判断基準だ。
偽の導師は 常に、人が夢を見るのを手伝う。

決して夢を見るのを邪魔しない。
それどころか、かえって、慰めと、精神安定剤を与える。
彼は 人を慰め、なだめる。

彼の教えは、まさに素晴らしい子守り歌になる。
彼は あなたのまわりで歌をうたい、あなたは、ぐっすり眠ることができる----それだけだ。


 だが真の導師は危険だ。
彼に近づくことは 危険に満ちている。
彼に近づくのは、命がけだ。

その人は あなたに夢を見させておかないし、夢を見るのを手伝うことは あり得ないからだ。
それでは すべての目的が失われてしまうからだ。

…⑤に続く

「信心銘」by OSHO,
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所