「信心銘」by OSHO, 第七章、③

(…内側深くのどこかでは、物事は 実は自分が見ているようなものではないと知っているからだ。)


 だがあなたは、もし自分が事の真相を見たら、それは あんまりで、自分には重すぎるに違いない、自分は それに耐えられないだろう、と思っている。

それを少し甘くするために、自分の夢を混ぜる。
苦いから 砂糖でくるもうと考える。
相手を 夢でくるんでおいて、その人が、甘くなったように感じる。
いや、あなたは、他の誰でもない、自分を騙しているだけだ。
だから そんなにも惨めなのだ。


 惨めさが 自分の 夢のせいで起こっている ということに、人は気づかなければならない。
他人のせいにしてはいけない。
さもないと人は 別の夢を創ることになってしまう。

投影しているのが自分だ という事実を見なさい。
だが、それを見るのは 難しい。


 劇場で、映画館で、人はスクリーンに目を向ける。
決して 後ろを見はしない。
が、映写機は背後にある。
本当は、フィルムはスクリーンの上にはない。
スクリーンの上にあるのは、単なる影と光の投影に過ぎない。
そのフィルムは まさに背後にある。だが、人は決してそこを見ない。
そして、映写機は そこにあるのだ。


 自分の思考(マインド)が あらゆるものの背後にある。

その思考(マインド)が 映写機だ。

だが、人は常に 相手の方を見ている。

相手が、スクリーンだからだ。


 恋していれば、その人は誰とも比較できないほど 美しく見える。

嫌いになれば、その同じ人が 最も醜く見える。
そして人は、どうして同じ人が、最も醜くなり、また最も美しくなり得るのかに 決して気がつかない。

恋していれば、その同じ人は 一輪の花、薔薇の花、棘のない薔薇の園だ。


 嫌いとなれば、憎いとなれば、花は消え、あるのは棘だけ、もう花園ではない。
最も醜く、最も汚く、見るのもいやだ。

そして、自分が何をしているのかに 決して気がつかない。
どうして、そんなに早く薔薇の花が消えてしまえるのか。
一瞬のうちに。
いや、その一瞬の隙間さえも必要ない。
今、恋をしていたかと思えば、次の瞬間には、憎んでいる。
同じ人、同じスクリーン、話だけが まったく違っている。


 ただ見ていなさい。
そうすれば、問題は その相手の人ではないことが分かるようになる。
自分が何かを 投影しているのだ。

恋を投影すれば、相手は 可愛らしく見える。

憎しみを投影すれば、相手は 醜く見える。

相手などいない。
真実の その人など あなたは全然見ていなかったのだ。

思考(マインド)の目を通して 真実を見ることはできない。


 真実の何たるかを 本当に知りたいなら、教典は 役に立たない。
ヒマラヤに行くことも何の役にも立たない。

役に立ち得ることは ただひとつ、思考(マインド)なしで 物事を見始めることだけだ。

花を見ても、頭(マインド)が 何かを言うのを許さない。
ただ、それを見るだけだ。
昔からの解釈癖があるから、それは難しい。
人は解釈し続ける。
すると解釈は、一人一人違って来る。
解釈は、人(マインド)によるからだ。


 ムラ-ナスルディンが、離婚訴訟を起こした。

彼は判事に言った。
「もう我慢できません。
毎日私が家に帰るたびに、女房の奴は、誰かを箪笥の中に隠しているところなんです」

「毎日かね」
さすがの判事も驚いて言った。

「毎日ですよ。しかも、同じ奴じゃないんですよ。毎日別の男なんです」

ただナスルディンを慰めようと、判事は言った。
「それじゃあ、あなたもずいぶん傷つくはずだ。
疲れて家に帰って、家で奥さんが待っていて 暖かく迎えてくれるとばかり思っているのに、帰ると、毎日 新しい男が箪笥の中に隠れているっていうんじゃね。
そりゃあひどいな」

「ええ、私だって傷つきますよ。
何しろ、いつだって脱いだ服をかける所がないんですからね」

 解釈は、その人(マインド)しだいだ。

 その後、ナスルディンは、妻を捨てて逃げた。
彼は捕まり、再び 法廷に連れ戻された。

「君は逃亡者だ。だから、罰を受けなければならない」と判事は言った。

ナスルディンは言った。
「待って下さい。判決を下す前に、女房を見て下さい。
女房を見てくれたら、決して、私を 逃亡者だなんて言わないでしょう。
あなたは『ナスルディン、君は 臆病者だね』って言うだけですよ。
そう言われるんなら、私も反対しません。
私は逃亡者なんかじゃない。
ただ、臆病なだけです。
だから、まず、女房を見て下さい」


 物事をどう見るかは、その人しだいだ。
対象にはよらない。
解釈する思考(マインド)を 落として、物事を 直接、直に見ることができるようになるまでは、思考(マインド)が あなたの仲介者だ。
それは、物事を歪めて手渡す。
自分の解釈を 混ぜ合わせて手渡す。
その対象は 純粋ではない。


 だから真理に到る 唯一の道は、いかにして 直に物を見る目を身につけるか、いかにして 思考(マインド)の援助を落とすかにある。

この思考(マインド)という 代理人こそが問題だ。
思考(マインド)は 夢を創り出すことしかできないからだ。

だが、思考マインド)は 美しい夢を創ることができる。

人は、すっかりその気になってしまうかも知れない。
その興奮によって その夢は本当のように見え始める。


 あまり夢中になれば、酔っぱらって、正気を失う。
そうなれば もう見えるものはすべて、自分の投影した物に過ぎない。

だから、人(マインド)の数と同じだけの世界がある。
なぜなら、人(マインド)は すべて自分の世界に住んでいるからだ。

他人の愚かさなら 笑うことができる。
だが、自分自身の愚かさを笑い始めるまでは、道(タオ)の人、自然の人、真理の人と なることはできない。

では、どうしたらいいのか。


 小さなことから始めて、思考(マインド)を 持ち込むのを やめてごらん。

花を見る時、ただ見る。
「美しい」とか、「醜い」とか、言わない。
何も 言わない、言葉を 持ち込まない、言葉に表現しないのだ。

ただ見なさない。
頭(マインド)は、居心地の悪い、具合の悪い思いをするだろう。

頭(マインド)は 何か言いたい。

その頭(マインド)に、ただ「黙って。 私に見させてくれ。ただ見てみたい」と言ってやりなさい。

 最初は 難しいだろうが、自分と あまり関係の深くないものから 始めなさい。

言葉を持ち込まず 妻を見るというのでは 難しいだろう。
あまりにも 関係が深過ぎる。
感情を伴い過ぎる。

腹を立てているにせよ、愛しているにせよ、とにかく関係が深過ぎる。


 自分にとって 中性なものを見なさい。
岩、花、木、昇る太陽、飛ぶ鳥、空を行く雲。

自分が あまり囚われていないもの、自分が離れていられるもの、無関係でいられるものを 見るといい。

まず 中性なものから始めて、その後で 感情を伴った状況へ進みなさい。


 人はよく、感情を伴う状況から始めるが、それは 失敗する。
そんなことは まず不可能だからだ。

自分の妻なら、愛しているか、憎んでいるかの どちらかだ。
中間は ない。
愛していても狂人、憎んでいても狂人だ。
そのどちらにしても 言葉が入って来る。

言葉を混入させないのは、ほとんど不可能だ。

絶えず何かを 言い続けて来たのだから、それは 難しい。


 ある朝、私は ムラ-ナスルディンの家に行った。
私が着いた時、二人は お茶を飲んでいた。

奥さんが 言っていた。
「あなた、ゆうべ寝言で、私のこと 何度もひどいこと言ったのよ」

ナスルディンは 私の顔を見てから 言った。
「俺が眠ってたなんて誰が言うのかな。
起きてちゃ 何も言えないから、眠ってる振りをしてたのに」

 眠っていても起きていても、あまり感情に 巻き込まれていることでは、思考(マインド)を 脇に置いておくことは難しい。
それ は 必ず、顔を出す。だから、まず 荷の軽い状況から見なさい。

あるものを 思考(マインド)を介入させずに、眺めることができると 感じるようになったら、もう少し複雑な状況を試してみるのだ。


 やがて上達する。
それは、ちょうど泳ぎのようなものだ。
初めは 恐くて、自分が 水の中から帰って来られるとは信じられない。
思考(マインド)との付き合いも あまりに長くて、思考(マインド)なしに、一瞬たりとも存在できるような気がしない。
だが、やってみてごらん。

 思考(マインド)を 脇に置けば置くほど、より多くの光が あなたに起こる。
なぜなら、夢想が なければ、扉が開き、窓が開いて、大空が あなたに届くからだ。

そして陽が昇り、それが あなたのハートまでやって来る。

その光が あなたに届く。

夢で満たされることが 少なくなるにつれ、あなたは ますます真理で満たされる。


 そしてもし、目覚めている時 夢が止まったら、やがて 眠っている時も、夢は止まるようになる。
なぜなら、それは、つながった環としてしか 存在し得ないからだ。

どこかで壊われれば、やがて家全体が消える。
瓦を ひとつ取り除けば、家全体が すでに 瓦解への道を踏み出している。

…④に続く

「信心銘」by OSHO,
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所