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「信心銘」by OSHO, 第七章、②

 
 思考(マインド)には、たったひとつの能力しかない。

それは 夢を見る能力だ。
この夢を見ることは、起きているあいだでも続いている。

僧サンやイエスは、あなた方が一度でも目が醒めたことがあるなどと信じないのはそのためだ。
なぜなら、夢には、ひとつの質があって、それは、眠っている時にしか起こり得ないということだからだ。


 この二つのことが まず理解されなければならない。
思考(マインド)が すべての夢の源泉だということ。
そして、夢は、眠りの中でしか起こらない ということだ。

だから、もしあなたが、二十四時間 夢を見ているとしたら、ひとつ絶対に確かなことは、あなたが ぐっすり眠りこけているということだ。

いつ目を閉じても、そこに夢がある。
それは、底流のように続いている。
あなたが何をしている時でも----あらゆる表面的な目的のためには、起きているように見えるが----実は、奥深くでは 夢の底流がずっと続いている。


 いかなる時にも、目を閉じれば、夢がそこにある。
何かをしているからといって、中断されることはない。

通りを歩いているあいだも、車を運転しているあいだも、工場や、会社で仕事をしているあいだも、それは ずっと続いている。

眠りに入ると、それは、もっとはっきりと感じられる。
何もしていないので、すべての注意が思考(マインド)に向かうからだ。


 それは、ちょうど星のようなものだ。
日中、空の星は見えない。
それは そこにある、二百フィートの 深い井戸に入れば、そこからなら日中でも、空の星を見ることができる。
星は そこにあるからだ。

ただあまりにも まわりが明るいために見えないだけだ。
星が現れるためには 闇が必要だ。


 同じことが 夢にも起こる。
夢は 日中にもある。
ただ、それに気づくためには闇が必要なのだ。

ちょうど、映画館に行った時のようなものだ。
扉が 全部開いていたら、映画は続いているのかも知れないが、それは見えない。
扉を閉めて、館内を暗くすると、見えて来る。


 人は 絶えず夢を見続けている。
そしてこの継続性が、打ち破られないかぎり、真理の何たるかを知ることはできない。

問題は、真理が非常に遠く離れているとか、近いとかいう事ではない。

問題は、頭(マインド)が 夢を見ているか、いないかだ。


 根本的な問題は、いかにして真理を見つけるかではない。
夢を見ている頭(マインド)で 真理を見つけることなどできない。
というのも、何が近づいて来ても、自分の夢が そこに押しつけられることになるからだ。

自分の夢が その上に投影されてしまう、それを解釈してしまう。
あるがままの それを見ることができない。
自分の夢に合わせて見てしまう。
歪めてしまうのだ。


真理は、そこにある。
存在し得るのは真理だけで、真理でないものは 存在し得ないのだから。


 そこで経文に入る前にもうひとつ。
シャンカーラは、現実(リアリティー)を 三つの範疇に分類した。
この範疇は、極めて理解に役立つ。

第一の範疇は 真なるもの、つまり実在するものの範疇だ。
実際は、それ以外には何も在り得ない。
真なるものだけが在り、また真なるものしか在り得ない。

 第二の範疇は、真でないもの、存在し得ないものの範疇だ。
それが存在し得る 可能性はない。
どうやって真ならざるものが存在できよう。
存在するためには 真である必要がある。

つまり非真とは 非存在、真とは 存在のことだ。

そこでシャンカーラは、第三の範疇を発見する。

それを彼は、夢、化象、幻影、マーヤ、と名付ける。
それは 存在するように見えて、実は存在しないものだ。

 だから三つの範疇がある。
真理、つまり存在するもの。
もし、目が澄んで、雲っていなかったら、頭(マインド)が夢を見ていなかったら、その時 存在するのは、ただひとつの範疇、真だけだ。

だが、もし頭(マインド)が夢を見ていたら、あと二つの範疇が現れる。


 ある意味では、夢は存在する。
何しろ、自分がそれを 夢見ているのだから。
そしてまた 別の意味では、それは存在しない。
それに対応する現実はないからだ。

夜、あなたは 王になった夢を見る。
朝になってみると、自分は やはり同じ乞食に過ぎない。
夢は 嘘だった。
だが、その夢は存在したのだ。

だから、それが起こったという意味では、それには真なるものの質がある。
そして 起こっていた瞬間は、あなたは それが本当だと完全に信じていた。
さもなければ夢は 即座に止んでしまっていたはずだ。


 自分は夢を見ている、これは 本当ではないと気づいたら、その夢は壊れる。
あなたは すでに目覚めている。
が、その夢は、一、二時間は存在した。
それには、真なるものの ある質があった。
それが存在していたということだ。

しかし それは真ではない。
朝になれば、それが存在しなかったことが分かるからだ。

それが単なる 思考に過ぎなかったと、空気の波動、空気の花に過ぎなかったと分かるからだ。
本当のようだが、本当ではなかった。


 真とは存在すること、非真とは存在しないことだ。
そしてこの二つの間に、夢を見るという世界がある。

それは両方の質を備えている。
そして思考(マインド)こそ 夢の源泉だ。
だから思考(マインド)は 幻だ。
思考(マインド)こそ すべてのマーヤの源泉だ。


 世間を離れて ヒマラヤに行けば、真理を達成できると あなたは考えているかも知れない。
それは間違っている。
なぜなら、家がマーヤではないからだ。
妻がマーヤではないからだ。
子供ではないからだ。

あなたの思い(マインド)が マーヤなのだ。

とすれば、どうやってその思い(マインド)をここに置いて、ヒマラヤに行くことができよう。
思い(マインド)は あなたの中にある。
それが捨てられるなら、どこでも捨てられるはずだ。
捨てられないなら、ヒマラヤに行こうと行くまいと、捨てることなどできない。

 妻や子供や世間がマーヤ、幻影と呼ばれるのは、二義的な意味でだ。

なぜなら、その妻は 実在し、彼女には、ある実存があるからだ。
彼女は彼女で ブラーフマだ。
真実だ。
だが、妻としてではなく、ひとつの魂として真実なのだ。


 あなたの頭(マインド)が 彼女を妻として解釈する。
「彼女は私の妻だ」と。
すると そこに夢が生まれる。

彼女は そこにいる。
それは、絶対的真実だ。
あなたが ここにいる。
これも 絶対的真実だ。

そしてその二人の間に ひとつの夢が起こる。
あなたは彼女を 妻と呼び、彼女は あなたを夫と呼ぶ。
今や、二人の間に 夢が存在する。
そして夢は 常に悪夢になる。

だから、あらゆる関係は 究極的には、悪夢になる。
なぜなら、人は ひとつの幻影を あまり永くは持続できないからだ。
幻影とは 一時的なものだ。
遅かれ早かれ、それは消えなければならない。
それは 永遠ではあり得ない、永久では 在り得ない。


 一人の女性を愛し、ある夢が創られる。
しかし、どれほど永くその夢を見ていられるかね。

ネムーンが終わった頃には、夢など跡形もない。
それまでも持たないかも知れない。
そうなったらどうするか。
その 振り をするしかない。
今や あなたは、自分の 約束の奴隷だからだ。

 自分がまだ愛している という振りををし、自分がまだ美しい という振りをし、自分のような人間は存在しない という振りをする。

だが、今や あらゆることが緊張だ。
そして 夢が壊れたのに、なお偽り、その夢を持ち運び続けるなら、それは重荷に、悪夢になる。
だからこそ、人は このような苦しみの中に生きているのだ。


苦しみとは、壊れてしまった夢に他ならない。
壊れた虹、壊れた幻影、見せかけに他ならない。

そして あまりにも多くを投入してしまったために、それが最初から夢だったという、真実を見ることができない。


 真実を見るくらいなら、相手に責任を擦り付ける。
「妻が騙したんだ」と あなたは言う。
「あいつは見かけほど いい女じゃなかった。あいつが騙したんだ。自分の本性を隠していたんだ」と。

そして、そんなことが まったくの的外れだ、ということを 見ようとしない。
あなたは 彼女のまわりに 夢を創り出していた。

そして その夢のために、真実を見ることができなかった。
彼女もまた あなたのまわりに 夢を創っていた。


 だから、二人の人間が恋をした時には、そこには必ず 二人ではなく、四人の人間がいる。
一人は 愛する者、もう一人は 愛される者、そしてその二人の間に、愛する者の想像(マインド)の産物である愛される者と、愛される者の想像(マインド)の産物である愛する者だ。
この二人は夢だ。
そしてこの二人が 動き続ける。


 遅かれ早かれ、夢が破れた時には、あなた方は 二人だ。
四人ではない。

二人いれば いつも面倒なことになる。
そうなると相手に 責任を擦り付けたい。
お前のせいだ、と。
あなたは またもや要点を逃がす。
かくしてあなたは、同じ夢を 今度は別の女性のまわりに創り出すことになる。
「このひとなら私を騙すことはあるまい。
それに今度は 私ももっと利口になったのだし」と考える。


 だが思考(マインド)が 利口だったためしはない。
思考(マインド)の本質とは、愚かさだ。
だから思考(マインド)は 決して 利口ではあり得ない。

それは ずる賢くはあり得る。
その愚かさの中で、それなりにずる賢い。
だが 決して賢くはあり得ない。
賢さは 思考(マインド)の本性にはない。

なぜなら 智恵とは、夢を見ることが消えて 初めて起こるものだからだ。

だから、夢を見ることが思考(マインド)の 基本的現実である以上、それは決して 賢くはあり得ない。


 仏陀のような人は賢い。
そこにはもう、思考(マインド)がないからだ。
僧サンのような人は賢い。


それは今や 彼が無心の世界に住んでおり、あらゆる夢が止んでいるからだ。
彼は あるがままにみる。

あなた方は 物事を決して あるがままには見ない。
あなた方は 自分の幻影を混入する。

あなたは物事を まっすぐに見ることを ひどく恐れている。
なぜなら、あなたは 無意識では知っているからだ。
自分の内側深くの どこかでは、物事は 自分が見ているようなものではない と知っているからだ。


…③に続く

「信心銘」by OSHO,
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財)禅文化研究所