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OSHO 「信心銘」第五章 ⑩

 “もし粗いと細かいの区別をしなければ、
 偏見にも、意見にも、誘われることはない。”


 もし、粗さと細かさとの間に、善と悪の間に、美しさと醜さの間に、これとあれとの間に 区別を設けなければ、区別し、差別しなかったら、人は すべてをただあるがままに受け容れる。

自分の判断(マインド)を 差しはさまない。
裁判官にならない。
ただ「そうなっている」と、言うだけだ。


 そこに刺があれば、「そうなっている」と言う。
薔薇があれば、「そうなっている」と言う。
聖人がいれば、「そうなっている」と、罪人がいれば、「そうなっている」と言う。

そして全体だけが知っている。
他の誰にも、なぜ罪人が存在するのかなど知り得ない。

そこには、何か理由があるに違いない。
だが、それは全体が心配すべき神秘だ。
自分が心配するようなことではない。


 全体は、聖人も、罪人も、刺も、薔薇も 誕生させている。
その理由は 全体しか知らない。
人はただ、全体の中に落ちて行くだけだ。
そして どんな分け隔てもしない。
自分にも、その理由が分かる時が来る。

だがそれは、自分が全体になった時だけだ。
神秘は、本人が神秘そのものになった時、初めて解かれる。

 あなたがあなたでありながら、それを解くことはできない。
もし、今のあなたのままでいるなら、あなたは、大哲学者になることになる。
たくさんの答えを持つだろうが、それは 答えではない。
たくさんの理論を持つことにはなっても、決して真実は得られない。

だが、もしあなたが 神秘そのものになったら、その時は分かる。

だがその知識は あまりに微妙で、言葉にすることはできない。

その知識は あまりに逆説的で、あらゆる言語的制約を無視してしまう。

その知識は あまりにも矛盾していて----対極がその境界を失なって、二つが一つになってしまっているからだが----どんな言葉も それを言い表わすことはできない。


 形態とは言葉を意味し、背景とは沈黙を意味する。

その知恵の中では、形態と背景は ひとつになる。
沈黙と言葉は ひとつになってしまう。
どうしてそれを 言葉にできよう。

だがそれでも それは言われなければならない。
なぜなら、渇くようにそれを求めている人が たくさんいるからだ。

それについて聞いただけで、ある者のハートは、旅立つかも知れない。
だからこそ僧サンは これらの言葉を語っているのだ。

僧サンは、それが言葉になり得ないことを知っている。
なぜなら、それを言葉にすれば、どうしても区別せざるを得ないからだ。

何かを言う時には、どうしても、言葉を選ばなければならない。

何かを言うとなれば、どうしても、あれではなく、これを言わなければならない。

すると思考(マインド)が入って来る。


 だが、誰も僧サンほど上手にやった者はいない。
比較を絶している。
これほど見事に 沈黙を言葉の世界にもたらした者を、他に見つけることはできない。
仏陀でさえ嫉妬を感ずるだろう。

この僧サンは 真の導師だ。
沈黙の師であり、言葉の師でもある。
この世ならぬものを、この世にもたらした。
一語一語を 自らの経験の深い沈黙で貫いた。


 僧サンの言葉に耳を傾けなさい。
ただ聴くだけでなく、摂り入れてごらん。
自分のハートに融け込ませるのだ。
記憶してはいけない。
自分の血流の中に流しこみ、自分の 血と骨にするのだ。 
摂り入れ、それを食べ、消化し、そして忘れてしまいなさい。
そうすれば、それには 途方もない変容の力がある。

(第五章、おわり……。)

「信心銘」Neither This nor That by OSHO
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財)禅文化研究所