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OSHO 「信心銘」第五章 ⑧

 
 “この両者の相対性と、
 空の統一体である、この根本実在を理解するがいい。” 


 自分が存在しているのは、自分を取り巻く「物」の世界のためだ。

自分という境界が存在するのは、自分のまわりにある「物」の境界のためだ。

その境界がなくなれば、自分という境界もなくなる。
一方は もう一方に依存している。
二つは同じものだ。


 人の思考(マインド)と外界の「物」とは、互いに接合している。
橋が かかっている。
一方の岸が消えれば橋は落ちる。
そうすれば、その橋とともに もう一方の岸も消える。
岸は片側だけでは存在できないからだ。
これが 相対性の意味だ。


 するとその時、そこに統一体がある。
空(くう)の統一体が。
人は空、花も空だ。
その花に境界がないのに、どうして中心があり得よう。

これは仏陀の最も深い認識のひとつだ。
そして、このことを かくも美しく主張してきたのは仏教徒だけだった。

仏教徒は言う。
そこにアートマはいない、自己はいない、と。

 このことは ひどく誤解されてきた。
と言うのは、ヒンドウー教徒たちは、その宗教のすべてが、アートマに、自己に、超自我に根拠を置いていると言っているからだ。

ところが仏陀は「境界がないのに、どうして自己が存在できるのか」と言う。
境界が存在せず、思考作用(マインド)が全面的に沈黙しているのに、どうして「私」があり得よう。

私とは ひとつの騒音だからだ。
在るのは全体なのに、どうして「私はいる」と言えよう。
形態と背景が ひとつになった時、どうして「私がいる」と言えるだろう。

 これが仏陀の空、アナッタだ。
この言葉は美しい。
アナッタ、無我。
自分はもういない。
それでも自分はいる。
本当は、初めて、人は 全体として存在する。

個人としてではなく、限定され、分離され、囲いをめぐらされた存在としてではなく、人は全体として存在する。
だが個人としては、区別された存在としては、もういない。

 人は もはや島ではない。
広大な空の広がりだ。
そして花も同じだ。
木も同じ、鳥にも、動物にも同じことが言える。
岩も、星も、太陽も同じことだ。
自分の自己が消えた時、至る所から自己が消える。
それは自己の反映だったのだから。

それは、宇宙に反響して戻ってきた あなたの自己だった。
あなたの狂気が こだましていたのだ。
もう、それはない。


 僧サンは、空がある時、そこに調和があると言っている。

自分がいるのに、どうして調和があり得よう。
自分という 切り離された存在そのものが 不調和を生み出すのだ。


 回教徒はヒンドウー教徒を愛すると言う。
互いに兄弟だと言う。
キリスト教徒はユダヤ教徒を愛する、両者は兄弟だと言う。

あらゆる者は兄弟だが、キリスト教徒でありながら、どうして兄弟であることができよう。
ヒンドウー教徒でありながら、どうして兄弟であり得よう。

その区分けが、その境界そのものが、内に敵をはらんでいる。
せいぜいのところ、人は他人を我慢することができるだけだ。
他人と ひとつになることはできない。
それに、ただ「兄弟」だと言ったくらいでは、何の足しにもならない。
誰も兄弟ほど激しく争いはしないのだから。


 「私はヒンドウー教徒だ」と言えば、私は 自分を全体から切り離している。

「私は力を持っている」と言えば、私は 自分を宇宙から切り離している。

「私は非凡だ」と言えば、私は 自分を宇宙から切り離しているのだ。

これが荘子が言っていることだ。
ただ 当たり前であれと。
その意味は、どんな風にも自分を切り放してはいけない、自分は これこれだと、ある輪郭で決めつけるなということだ。

いつでも 出会い、融ける用意のある 流動的な境界線をもって生きなさい。


 “この両者の相対性と、
 空の統一体である、この根本実在を理解するがいい。
 この空の中で、主体と客体は区別されない。”


 この二つは識別され得ない。
切り放された別のものだと、感じることはできない。
この二つは 分かれてはいる。
だがその分離は まったく別のものだ。
識別することはできる。
だがその分離は 自我によるものではない。


 それはちょうど 海の波のようなものだ。
識別はできる。

波は波であって、海ではない。
だが、それでもそれは海だ。

波は海なしには 存在できない。
海が その中で波打っている。
海が その中で脈打っている。

それは形態としては分離している。
しかも 存在として別物ではない。

あなた方は 分かれてはいる。
しかもなお、切り離されてはいない。

これこそ人が、無我、アナッタを経験する時 体験する、最も根本的な逆説だ。

…⑨に続く