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OSHO 「信心銘」第五章 ⑦

(…ちょうど服を脱ぐようなものだ。)
 
あまりにもぴったりと作ったものだから、まるで自分の皮膚みたいに感じているのだが、それは皮膚ではない、服に過ぎない。
簡単に脱ぐことができる。
だが そのためには、人は、自分が形態ではなく、背景であるということを理解しなければならない。
そして この思考(マインド)が落ちた時、対象世界は ただ消えてしまうと僧サンは言う。

 彼は何を言っているのだろう。
深い瞑想の中で 無心の境地に到れば、この木々が消えてしまう、なくなってしまうと言っているのだろうか。
そうなればもうこの家も無くなるのだろうか。
ここに坐っているあなた方も いなくなるのか。
私が達成すれば、今、坐っているこの椅子も消えてしまうのか。

 そうではない。
対象が 対象として消えるのだ。
この椅子が消えるのではない、あの木が消えるわけではない。
それはそのままだ。
だが、それらはもう限界のあるものではない。
境界を持たなくなる。

そうなれば、この椅子は、太陽と出会い、空と出会う。
そうなれば、形態と背景がひとつになる。
背景から切り離された形態は存在しない。
それが それとしての個別性を失う。

すると、それらは もう対象ではない。
そこでは、あなたはもう主体ではないからだ。


 クリシュナ-ムルティが、実に美しいことを言っている。
それは、深い瞑想の中では、見る者は 見られる者になる ということだ。
これは真実だ。
だが、あなた方は、そんなことは馬鹿げていると感じるだろう。
クリシュナ-ムルティが言うのは、人が花を見ていれば、その人は花になるということだろうか。
そうなったら、どうやって家に帰る。
それに誰かが自分を摘んでしまったら、その人は困るだろう。

 「見る者は見られる者になる」。
それは自分が花になるということだろうか。
違う。
だが、ある意味では、そうとも言える。

自分が摘み取られるかも知れないとか、誰かが持って行ってしまうとか、自分はもう人間ではない、というような意味で花になるわけではないが。

 そういう意味ではない。
だが思考(マインド)がなければ、自分を 花から切り離している境界はない。
また花にも、花を人から切り離している境界はない。

人と花は ともに主体性の海になる。
それらは溶け合い、出会う。
人は人のまま、花も花のままだ。
誰も間違って あなたを摘んだりすることはない。
だが、そこには 融合がある。


 これは、人生では、人を愛した時に ほんの束の間 起こることがあるだけだ。
それも 滅多にはない。
思考(マインド)は 愛の中でさえ決して離れないからだ。
思考(マインド)は ひとり合点の無意味なこと、自分だけの世界を創り続け、恋人に、その背景に到達できるほどの親密さを許さない。
形態が、エゴがいつでもその間に立つ。
だが、時たま、それが起こる。

 もちろんそれは、自分の つ も り に反して起こっているに違いない。
それがあまりにも自然であるため、こちらのあらゆる防害工作にもかかわらず、時として、実在が ぶつかって来ることがある。

こちらのあらゆる手配にもかかわらず、そのあらゆる夢にもかかわらず、時として、実在が人を貫くことがある。

時として 防衛機構が外れることがある。
ついうっかりしていたり、何かにあまりに熱中していて、自分の窓が開いていることを忘れる、その窓を見ていない。
と、そこに実在が入って来る。


 これは、愛の中で、見る者が見られる者になった時、ほんの一瞬、起こる。
それは 美しい瞑想だ。
愛する人があるなら、その人と一緒に坐わり、お互いの 目の中を見つめ合ってごらん。
何も考えず、相手が誰かも、一切考えるということをせず、ただ互いの目を見つめ合う。

 見る者が見られる者になった時、ある一瞥が起こるかも知れない。
自分がいなくなり、自分が誰だか、自分が愛する者になったのか、あるいは愛する者が自分になったのかも分からなくなった時に・・・・。
目は 互いの中に入り込むための美しい扉だ。

 だが、どうして、それが愛の中でしか可能でないと言うのかわかるかね。
それは、人が愛の中でしか防御を解かず、寛がないからだ。

相手を恐れていなければ、人は傷つきやすくなれる。
それだけの勇気が出る。
そうでない時、人はいつも、防御している。
相手が何をするか分からないからだ。
相手が 自分を傷つけるかも知れない。
それに 防御を解いていれば、それだけ深傷を負いかねない。


 愛の中では、人は互いの目の中を見ることができる。
背景と形態が ひとつに融け合う時、ある一瞥がある。
人は その根底まで揺るがされ、突如として、ある一瞥を得る。

自分は いない、しかも自分は いる、と。
どこか深い所で、ひとつの出会いが起こったのだ。

 真の瞑想者には、これが宇宙そのものとの間に起こる。
瞑想者は木になるわけではないが、しかも木になる。
瞑想者が 木とともにいる時、そこに境界はない。
そして この無境界の国と波長が合ったら、もう その人は 境界なしに動く。

 これが僧サンのいう意味だ。

思考(マインド)が 消える時、対象は消え失せる。

対象が消えた時、人は消える、自我は消える。

それは 相対的なものだ。

…⑧に続く