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OSHO「信心銘」第五章 ④

(…その夢の中に永久に止まっていられるかね。)

 それは 眠る助けにはなる。
邪魔されないですむ。
さもなければ、空腹が眠りの邪魔をしただろう。
起き上がって冷蔵庫まで行かなければならなくなる。
それは役に立つ。
食べたつもりになって、眠り続けることができる。
どこにも行く必要はない。
だが 翌朝になれば、夢(マインド)に騙されたことに気がつく。


 人の生涯はすべて、まさに夢のようなものだ。
夢で 本物の代わりをさせているのだ。
だから毎日、あらゆるものが砕け散り、人は毎日、ショックを受けながら現実に入って行く。
そこここで現実がぶつかり続けるからだ。
それを避けることはできない。
夢は 極めてひ弱なものだ。
現実がぶつかり続け、夢を破壊し続ける。

 そして、それはいいことだ。
現実が夢を壊し、粉々にうち砕いてしまうのは、あなたにとっていいことだ。
だが、あなたは またもや、その破片をかき集め、他の夢を創り始める。
もうやめなさい。
十分やったはずだ。
何ひとつ達成されはしなかった。
もうやめてもいい時だ。

 一度、夢を見るのは やめなければならないと理解したら、対象世界は消える。
世界はあっても、それは客体ではない。
そうなれば、あらゆるものが生命を持つ。
あらゆるものが主体になる。

 宗教的な人々が、すべては神だと言うのは その意味だ。

この人たちは何を言っているのか。
神とは 単に 喩えに過ぎない。
天のどこかに坐って、制御したり、操作したり、工作したりしている者など、誰もいない。
神とは、喩えに過ぎない。
その喩えとは、世界にある このすべてのものは、物というよりはむしろ人に似ているということだ。
その内側深くには 主体性があり、あらゆるものは生きて、脈打っている----しかもこの脈動は、 細切れの過程ではない----この脈動は全体の脈動だ。

 もちろん、心臓の鼓動なら感じられるだろう。
心臓の近くで、心臓の中で。
だが、その鼓動が心臓の中だけだと考えるなら、それは間違っている。
全肉体が脈打っているのだ。
心臓は単にそれを表示しているに過ぎない。
全肉体が脈打っている。
だからこそ、心臓が止まった時、肉体は死ぬ。
脈打っていたのは、本当は心臓ではなく、全肉体が 心臓を通して脈打っていたのだ。
心臓は単なる表示器に過ぎなかった。

 あなたは脈打っている。
だが、全体が あなたを通して脈打っているのだ。
あなたは 単なる表示器、心臓に過ぎない。
宇宙が、あなたを通して脈打ち、鼓動している。
あなたは いない。
宇宙がいるのだ。

 そして宇宙とは、客体を全部集めたものなどではない。
それは主体性だ。
それは 一人の人間のように存在している。
それは、生きて、意識を持っているのだ。
機械的な仕組みではなく、ひとつの有機体なのだ。

 さあ、僧サンの言葉を理解してみよう。


 “思いの対象が消え去れば、

 思う主体も消えて行く。

 心が消えれば、対象も消えるように。

 物が対象であるのは、思う主体の故、

 心が心であるのも物の故だ。”


 あなたのまわりにある物は、あなたのせいで そこにある。
自分がそれを 引き寄せているのだ。
まわりに地獄を感じているとしたら、それを引き寄せたのは あなただ。
それに腹を立てるのはよしなさい。
それと闘い始めないことだ。
そんなことをしても無駄だ。
自分が引き寄せて、招いたのだ。
自分がそれをし、そして今、その欲望が満たされたのだ。
何であれ、あなたが必要としたものが、まわりにある。
すると今度は、あなたは闘い始め、腹を立てている。
あなたは成功したのだ。

 自分のまわりに起こっていることは何でも、すべて思い(マインド)に その根がある。
ということを いつも覚えておきなさい。

思い(マインド)が常にその原因だ。

それこそが映写機だ。

外界には映写幕しかない。

あなたが自分を投影している。

それを醜いと感じるのなら、その思い(マインド)を変えなさい。

その想念(マインド)からやって来るものがすべて、地獄のようで、悪夢のようだと思うのなら、その思い(マインド)を捨てるのだ。

思い(マインド)に働きかけなさい。

映写幕に働きかけてはいけない。

色を塗り、取り変え続けるのはやめなさい。

思い(マインド)に働きかけなさい。

 だが、ここにひとつ問題がある。

それは、人は その思い(マインド)が 自分だと思っているということだ。
とすれば、どうやって それを捨てることができるか。

あらゆるものを捨て、すべてを取り替え、色をぬり直し、組み変えることならできるような気がする。
だが、どうやって自分自身を捨てられよう。

これがすべての面倒の根本だ。

人は 思い(マインド)ではない。
人は 思いマインド)を超越している。
あなたが思考(マインド)に自己同化してしまったことは確かだが、あなたは 思考(マインド)ではない。


 そしてこれこそが、
自分は思考(マインド)ではない というささやかな一瞥を与えることこそが 瞑想の目的だ。

ほんの一瞬にせよ、思念(マインド)が止まる。
と、それでも自分が存在している。
いや、かえって、以前よりもっと存在している。
存在で溢れている。
思念(マインド)が止まった時、それは、あたかも絶えず自分を流出させていた漏洩口が塞がったようなものだ。
突然、人はエネルギーで溢れる。
これまで以上の充実を感ずる。

 たとえ一瞬でも、思念(マインド)はないのに、「自分はいる」ということを知れば、人は 深く秘められた真理の核に到達したのだ。

そうなれば思考(マインド)を落とすのは容易だ。
人は思考(マインド)ではない。
そうでなければ、どうして自分自身を落とすことができよう。

まず、その自己同化が落ちなくてはならない。
そうすれば、思考(マインド)そのものを落とすことができる。


 グルジェフの手法はすべて、いかにして この自己同化を剥ぐかということだ。

今度 欲望が起こったら、それを見てごらん。
心の中で「よし、この欲望が どこに動くか見てみよう」と言うのだ。
そうすれば、そこにある距離を感ずるだろう。
あなたは、それを見ている。
この 見ている者、この 見物人は誰か。

そして欲望は動き、夢を紡ぎ出す。

 時には、忘れるかも知れない。
時には、その欲望とひとつになるかも知れない。
その時はまた自分を引き戻すがいい。
またその欲望に目をやるのだ。
その欲望は ひとりで勝手に動いている。
それは、あたかも視界に雲が入って来たようなものだ。
あなたの 実存の空に、ある想念が入って来た。

ただ眺めていなさい。
それを見守るのだ。

すると、いいかね、もしあなたが ほんの一秒の何分の一かでも 自己同化しないでいられたら----欲望がそこにあり、自分はこちらにいて、その間に距離があったら----突如として、そこに光がある。
あなたに 光明が投ぜられる。

 今やあなたは、思考(マインド)が 自分勝手に働くのを知っている。
それは ある機構だ。
それは降ろすこともできる----使わなくてもいいし、使ってもいい----あなたが主人だ。
奴隷ではない。
その機構は本来の場所に置かれる。
もはや主人ではない。
そうなれば、降ろすことが可能だ。

自分が それではないと分かって、初めて降ろすことができるのだ。


 瞑想が、目撃することが、静かに坐って想念(マインド)を見ていることが、大いに役立つだろう。

何を強いることもなく、ただ坐って見ている。
何をするでもなく、ただ空を飛ぶ鳥を眺めるように見ていなさい。
地面に横たわって、何をするでもなく、無関心に ただ見ている----実際 鳥がどこへ向かっていようと あなたにはどうでもいい、鳥は勝手に動いているのだから。

 いいかね、想念(マインド)もまさに、鳥のようなものだ。
それは勝手に動いている。
時には、そばにいる誰かから、自分の空に 想念(マインド)が入って来ることもあれば、またこちらの想念(マインド)が 誰かの空に入り続けることもある。

ときどき誰かと一緒にいると、突然 悲しくなったり、また別の誰かと一緒にいると、突然エネルギーの高まりを感じたり、幸福や喜びを感じることがあるのは そのためだ。

ただ誰かを見るだけで、その人の そばにいるだけで、こちらの気分の何かが変わる。

 それは場所でも起こる。
ある家へ入ると、突然、憂鬱がとりつく。
別な家へ入ると、今度はまるで、突然羽根でもはえたみたいに軽く感じる。
飛ぶことができる、重さがない。
ある集団に入ると、もう自分ではない。
何かが変わってしまう。
そして別の集団に入るとまた何かが変化する。

 これが、サットサングの基礎だ。
思考(マインド)を持たない師とともにいることだ。
師の近くにいるだけで、時としてその無思考が、無心が あなたの扉を叩く。
ある瞬間に、それは起こる。
操作することはできない。
待たなければならない。
ただ祈り、待ち、見守っていなければならない。
それを強制することはできない。
それは思考(マインド)ではないからだ。
思考(マインド)は物だ。
人に向けて投げつけることもできる。
無思考は物ではない。
それを投げることはできない。

…⑤に続く