OSHO「信心銘」第五章 ③

(…状況にすべて望みがないのに、それでも思考(マインド)は希望し続ける。)

 ムラ-ナスルディンが、何年も何年も、職を失くしていたことがあったそうだ。

 と言うのは、才能もないのに俳優になりたかったからだ。
ムラは、毎日 周旋業者の所に お百度を踏んだ。
期待に満ちて事務所の扉をノックし、中に入り、そして尋ねる。
「何かありましたか。 どこかで僕に役がつきましたか」
 
 そして周旋業者の言うことは いつも同じだった。
「私には どうしようもないよ。 そんな可能性はないんだから」

 幾日も過ぎ、何週間も過ぎ、やがて何年も過ぎた。
ムラの訪問は、お決まりになった。
どんな季節であろうと、天気がよかろうが悪かろうが、周旋人にとって ただひとつ確かなことは、ムラが やって来るということだった。
そしてムラは またもや、期待に満ちて尋ね、周旋人は 再び同じことを言う。
「ナスルディン、私にはどうしようもないよ。
そんな可能性はないんだから」

 するとある日、ノックのようすが違って、ちょっと哀れっぽかった。
ムラが入って来たのを見て、そのあまりに悲しげなようすに、さすがの周旋人も驚いた。

 ムラは言った。
「あの、二週間だけ、どこにも僕に役をつけないで下さい。
ちょっと休暇に出るものだから」


 これが思考(マインド)の働き方だ。
何年間どころか、幾生涯にもわたって期待し続ける。
同じ質問、同じ欲望を持って、同じ扉を叩く。
そして答えは いつでも「ノー」だ。
思考(マインド)によって、「ノー」以外に何か得たことがあるかね。

「イエス」は決してそんなふうにはやって来ない。
来られない。
思考(マインド)は無益な努力だ。
砂漠のようなものだ。
そこには 何ひとつ育ち得ないのに、それでも希望し続ける。

砂漠ですら夢を見る。
しかも、素晴らしい庭を、川が流れ、小川と滝がある美しい庭の夢を見る。
砂漠ですら夢を見る。
そして それこそが思考(マインド)の夢だ。

 あなたは 油断なく覚めていなくてはならない。
これ以上、時を浪費する必要などない。
周旋人の扉を叩く必要はない。
思考(マインド)とは十分に暮らして来たはずだ。
それによって 何ひとつ得られなかった。
もうそろそろ しっかりと目を覚まし、気がついてもいい時ではないのかね。

 もちろん、あなた方は、たくさんの不幸と、たくさんの地獄を集めてきた。
それを達成と呼びたければ、それでもいい。
たくさんの苦悩と失望を集めてきた。
思考(マインド)と一緒では どこへ行こうと、必ず何かがうまく行かない。
思考(マインド)とは、うまく行かせないための装置なのだから。
あなたが見れば、どこかが具合悪い。


 ムラ-ナスルディンの息子が学校に入った。
地理の時間があって、先生は、地球の形について何もかも教え、説明した。
それから彼女は ムラ-ナスルディンの息子に尋ねた。

「地球の形は何かしら」

 彼は 黙ったままだった。
それで ちょっと答えを促すために「それは平かしら」と言った。

 息子は言った。
「違うよ」

 先生は元気づいてまた、言った。
「それじゃ球のような丸い形」

「違うよ」とナスルディンの息子。

 それで先生は驚いて言った。
「だって、 どっちかでしょ。平べったいか、丸いか。なのに、そのどっちでもないなんて。
じゃ、あなたは どんな形だと思うの」

 息子は言った。
「父さんが いびつだって言ってたもん」


 思考(マインド)にとっては すべてが歪んでいる
それはすべてが歪んでいるからではなく、思考(マインド)の 物の見方のせいだ。
思考(マインド)という媒体を通り抜けたものは、何でも歪んでしまう。
ちょうど、まっすぐな棒を水の中に入れるようなものだ。
棒は まっすぐなのに、突然、水という媒体が何かをしてしまう。
もうまっすぐではない。
水から取り出してみると、棒はやっぱりまっすぐだ。
もう一度入れてみる----。

 そこで、水の中でも棒はまっすぐなままなのだと分かる。
それでもまだ、目はそれがまっすぐではないと言う。
その水の中に 入れたり出したりを人は百回でもできる。
棒は まっすぐなままだとよく知っているのに、またもや水は、それが まっすぐではないという偽りの情報を与える。

 あなたは惨めさが 思考(マインド)によって作られることを、いやと言うほど知らされている。
にもかかわらず、またもやその犠牲になる。
思考(マインド)が 惨めさを生むのだ。
それは実在には遭遇し得ないのだから、他にどんなものを生むこともあり得ない。
夢を見ることしかできないのだ。
それが唯一の思考(マインド)の能力だ。
それは夢しか見られないし、夢は実現しない。
実在に出くわした瞬間、夢は破れるのだから。

 人はガラスの家に住んでおり、実在に直面することができない。
実在が現われたら、その家は必ず粉々に砕け散る。
これまで住んできたたくさんの家が砕け散った。
人は頭(マインド)の中にそれらの廃墟を、その結果としての苦悩を持ち続けている。
だから、人は ひどく酢っぱく、ひどく苦くなってしまった。

 誰でもいい、その人を味わってみなさい。
きっと苦い味がするだろう。
そしてそれが、他の人が あなたについてする体験でもある。
誰もが苦い味がする。
近くへ寄れば、何もかもが苦くなる。
離れていれば、すべてが美しく見える。
近くへ寄れば、あらゆる物が苦くなるのは、互いに思考(マインド)が貫き合って すべてが歪んでしまうからだ。
そうなれば何ひとつまっすぐなものはない。


 これは、私や僧サンからの理論としてではなく、自分自身の経験として認識されなければならない。
僧サンも私も助けにはならない。
自分でその現象を経験しなければならないのだ。
実際に経験すれば、それは真理になる。
そうなれば、いろいろなことが変化し始める。
そうやって、人は思考(マインド)を落とす。

 そして、思考(マインド)が落ちれば、あらゆる世界は消える。
思考(マインド)が落ちれば、対象は消える、もう対象ではなくなる。
そうなれば、もう、自分が どこで終わって、世界がどこから始まるのか分からない。
そうなれば、境界は存在しない。
境界は消える。

 初めのうちは、あたかもすべてがぼやけてしまったような感じがするが、やがて無思考という新しい現象に落ち着く。
そうなれば 星はあっても、それは自分の一部だ。
もう対象ではない。
花も樹もあるが、それは自分の中に咲く花だ。
もう外側ではない。
その時 人は、全体を生きている。

 障壁が壊されたのだ。
障壁は自分の思考(マインド)だった。
その時 初めて、世界は無くなる。
世界とは、対象の総体のことだからだ。
初めて、宇宙(ユニバース)が存在する。
宇宙とは〈一体(ひとつ)〉のことだ。
この「ユニ」という言葉を覚えておきなさい。
あなた方が こ れ を宇宙と呼んでいるのは、間違っている。
それを宇宙と呼んではならない。
あなた方のは、多元宇宙(マルチヴァース)だ。
たくさんの世界、〈一体(ひとつ)〉ではない。
まだ〈一体(ひとつ)〉にはなっていない。
だが、ひとたび思考(マインド)が落ちれば、世界は消える。


 そこには対象は存在しない。
境界は混ざり合い、互いに溶け合う。
樹は岩になり、岩は太陽になる。
太陽は星になり、星は愛する女性になる。
すべてが出会い、互いに混ざり合っている。
そこには、切り離されている自分は存在しない。
自分は その中にいる。
まさにその心臓の中心で鼓動し、脈打っている。
その時、それが宇宙だ。

 思考(マインド)は落ち、対象は消える。
夢の源は消えた。
これまであなたは何をしていたのか。
あなたがしてきたことは、よりよい夢を見ようとすることだった。
無論、無駄なことだったが。
思考(マインド)の 努力のすべては、よりよい夢を見ることだ。
だが、思考(マインド)が そんなによい夢を与えられるとは思えない。
それに 夢は夢だ。
たとえ、よりましな夢だとしても、人を満足させるものにはならない。
深い満足を与えることはできない。
夢は 夢だ。

 渇きを感じているなら、必要なのは本物の水で、夢の水ではない。
腹がすいているのなら、必要なのは本物の、食べられるパンで、夢のパンではない。
ほんの一瞬なら、自分を騙すこともできるかも知れない。
だが、どれほど騙し続けられると言うのか。

 毎夜それは起こっている。
腹がへっていれば、思考(マインド)は 食べている夢を創り出す。
美味しい物を食べている。
数分の間ならそれもいい。
数時間でも、まあ結構だ。
だが いつまで続けられる。
その夢の中に永久に止まっていられるかね。

…④に続く

「信心銘」by OSHO
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財)禅文化研究所