saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

OSHO 「信心銘」NEITHER THIS NOR THAT, P.36~



第1章 大いなる道

…略……人を愛すれば、あなたたちは投影する。
あなたたちが愛するのは、与えるためではない---あなたたちは奪うために、搾取するために愛する。
人を愛すれば、あなたたちは自分に合わせて、自分の考えに合わせて その人を固定しようとし始める。
あらゆる夫が これをしている、あらゆる妻がこれをしている、あらゆる友人がこれをしている。
相手を、実在を変えようとし続ける。
が、実在が変わることは あり得ない---あなたたちは失望するだけだ。

 実在は 変わり得ない。
ただ夢が粉々に砕かれ、自分が傷つくことになるだけだ。
が、人は 実在に耳をかさない。
あなたの夢を満たすために ここにいる者など誰もいない。
誰もが、自分の運命を、自分自身の真実を実現するために ここにいるのだ。

 僧璨のような人も愛するが、その愛は搾取ではない。
彼が愛するのは、あまりにも多くを持っているから、溢れているからなのだ。
彼は誰のまわりにも夢を紡がない。
道で出会う誰にでも分かち合う。
その分かち合いは無条件だ。
相手から何ひとつ期待してはいない。
愛が期待したら、来るのは惨めさと狂気だけだ。

「違う」と 僧璨 は言う。
「愛でも憎しみでもない。 ただ相手の真実を見るがいい」と。
これが覚者の愛だ。
相手の真実を見ること。
相手をあるがままに見ること、ただその真の姿を見ることだ。
投影するのでもなく、夢を見るのでもなく、イメージを作るのでもなく、そのイメージに合わせて相手を固定しようとするのでもない。

 “愛も憎しみもなければ、
 すべては明瞭で、隠されたものとてない。”

 心(マインド)は愛したり、憎んだりせずにはいられない。
心(マインド)は たえずこのふたつの間で闘っていなければならない。
もし 好きでも嫌いでもなかったら、人は 思い(マインド)を超える。
そうなったら どこに思い(マインド)があるか。
自分のなかで思考(マインド)は消え去る。
選択があれば、たとえ「私は静かでいたい」と言っても、決して静かではいられない。
そこに好みがあるからだ。
これこそが問題なのだ。

 人々は、私の所にやって来て言う。
「静かになりたいのです。 もうこれ以上、こんな緊張をしていたくありません」。
私は、この人達を気の毒に思う。
気の毒なのは、彼らの言っていることが馬鹿げているからだ。
これ以上緊張したくない と思えば、新しい緊張を生み出すことになるのだ。
なぜなら、その したくないという思いが 新しい緊張を作ることになるからだ。
つまり、静けさを望み過ぎたら、それを あまり求めたら、その沈黙そのものが緊張になり、今度は そのために もっとかき乱されることになる。

 静けさとは何だろう。
それは深い理解だ。
自分が 選り好みをしたら緊張する、という現象に対する理解なのだ。
たとえ、沈黙を選んでも、緊張することになる。

 理解しなさい。それを 感じなさい。
選り好みをすれば必ず自分が緊張する。
選り好みをしなければ緊張はなく、常に人は寛いでいる。
そして 寛いでいれば、その眼には ある明晰性がある。
それは雲や夢によって曇らされていない。
どんな想いも頭(マインド)をよぎらない。
人は見抜くことができる。
そして 真理が見えたら、それが人を解放する。
真理は解放する。

 “だが、ほんの僅かな区別でもすれば、
 天と地は無限に離れる。”

 ほんの僅かの区別、ほんの僅かな選択、それで人は分断されている。
そうなれば もう地獄と天国がある---そして その二つの間で人は押しつぶされていることになる。

 “だから、真実を見たいと願うなら、
 いいとか、駄目とかの意見をもたぬことだ。”

 意見を持たずに動きなさい。
裸で、衣服を着ずに、真実についての どんな意見も持たずに動きなさい---真実は あらゆる意見をひどく嫌うからだ。
自分の哲学、理論、教義、聖典を すべて捨てなさい。
がらくたは すべて捨てるのだ。
黙って選ばずに行きなさい。
あるものをただそのままに見ようとする眼を持ち、いかなる意味でも自分の願いの何がしかが満たされるのを見たいなどとは望まずに。
望みを持ち運んではいけない。
地獄の小径は、希望でいっぱいだ と言う---よかれとの願い、希望、夢、虹、理想で。
天国の小径は まったくからっぽだ。

 重荷をすべて捨てなさい。
高く行きたいと思うなら思うほど、それだけ重荷を少なくしていなければならない。
ヒマラヤに行くのなら、完全に荷を降ろさなければならない。
そして最後に、グリシャンカールに、エベレストに到達する時には、何もかも捨てなければならない、まったくの裸で行かなければならないのだ。
高く行けば行くほど、人はそれだけ身軽になっていなければならないのだからだ。
意見とは肩にかかる重荷だ。
それは、翼ではない、文鎮のようなものだ。
意見なしで、どんな選り好みもなしでいることだ。

 “だから、真実を見たいと願うなら、
 いいとか、駄目だとかの意見をもたぬことだ。

 本当に真理の何たるかを知りたければ、有神論者であってはいけない、無神論者であってはいけない。
「神はいる」と言ってはならない、「神はいない」と言ってはならない。
どんなことでも自分が言ったことは 深い欲望になってしまうからだ。
そして、人はその欲望の陰に隠れているものを何でも投影することになる。

 唇に横笛を当てたクリシュナの姿をした神を見たいと思っていたら、いつかその姿を見ることになる。
それは、クリシュナが そこにいるからではなく、自分が持っていた欲望の種をこの世のスクリーンに投影したからに過ぎない。
十字架上のイエスを見たいと思っていれば、いつかはそれを見ることになる。

 何でも自分の望むものが投影される。
だがそれは、夢の世界に過ぎない、真理に近づいて行ってるわけではない。
内側の種をなくしなさい---意見も、賛成、反対の考えも、哲学も持たずにいなさい。
ただ、あるがままを見て行きなさい。
どんな思い(マインド)も持ち運ばずに、思い(マインド)無しで行くのだ。

 “だから、真実を見たいと願うなら、
 いいとか、駄目だとかの意見をもたぬことだ。
 好きと嫌いの葛藤、
 これが心の病いだ。”

 これこそが心(マインド)の病いだ。
何が好きで、何が嫌い、賛成と反対。
なぜ人間は分割されるのだろうか。
どうして一体(ひとつ)ではいられないのか。
あなたたちは そうでありたいと望む、一体でありたいと願う。
だがあなたたちは、その分割に、選り好みに、好き嫌いに、水をやり続ける。
…略……

「信心銘」NEITHER THIS NOR THAT by OSHO
(訳者)スワミ-パリトーショ PP. 36-41
(発行所) (財)禅文化研究所