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OSHO 講話録「アティーシャの 知恵の書」③

P. 41~

「三つの対象、三つの毒素は、美徳の三つの基礎」

 そこには、三つの毒として働く、もしくは無限の 美徳の三つの基礎となる、三つの対象がある。
アティーシャは 錬金術について語っている。
毒は 甘露に変えられる。
卑金属は 黄金へと変えることができる。

 これら三つの対象とは何だろう?
一つは 嫌悪、二つ目は 愛着、三つ目は 無関心だ。
これがマインドの機能の仕方だ。
あなたは、自分が嫌うものには何でも嫌悪を感じる。
自分が好きなものには、それが何であろうと愛着を感じる。
そして 好きでも嫌いでもないものには 無関心でいる。
これらが 三つの対象だ。
この三つの間に マインドは存在している。
嫌悪、愛着、そして無関心は、マインドと呼ばれる三脚の三つの脚だ
そしてもし、この三つを そのままに生きるなら、あなたは 毒の中で生きることになる。

 これが、私たちが生から 地獄を創り出すやり方だ。
反感、嫌悪、憎しみ、拒絶ーーーそれはあなたの 地獄の三分の一を創る。
愛着、愛好、執着、所有ーーーそれは地獄の 次の三分の一を創る。
そして あなたが魅力も嫌悪も感じない、そうしたあらゆることへの無関心は三番目の部分、三つ目、地獄の三分の一を創る。

 ただ、あなたのマインドを見つめなさい。
これがマインドの機能の仕方だ。

 マインドは いつも言っている。「これは好き、あれは好きではない、三つ目は興味がない」

 この三通りの方法で マインドは動き続ける。
これは お決まりのパターン、日課となっている。


 アティーシャは言う。
「これらは 三つの毒だ。しかしそれは 美徳の三つの基礎になりえる」

 ではどうすれば、素晴らしい美徳の三つの基礎に なりえるのだろう?ーーーもしあなたが 慈悲の質をもたらすならばーーーあたかも、世界の すべての苦しみが呼吸に乗ってやって来るような、苦しみを吸収する技法(アート)を学ぶなら、嫌悪を感じることは不可能だ!
どうやって嫌うことができようか?
またどうやって無関心でいられるだろう?
そして、どうやって愛着を持てるだろう?
もしあなたが 世界中の苦しみを無条件に受け取り、それを飲み込み、あなたのハートの中へ吸収したら、祝福を全存在に向けて無条件に注ぎなさいーーー特定の人にではなく。
覚えておきなさいーーー人間だけにではなく すべてに対して、生きとし生けるものに対して、木や岩、鳥たちや動物たち、物質、非物質、全存在に対してだ。
あなたが 無条件に祝福を注ぐ時、どうやって愛着を持てるだろう。

 愛着、嫌悪、無関心、すべては この小さなテクニックによって消える。
そして これらの消滅によって 毒は甘露に変容される。
そして 束縛は自由になる
地獄はもう地獄ではない。
それは 天国だ。

 この瞬間に、あなたは「この身体こそ仏(ブッダ)であり、この世こそが極楽浄土(ロータスパラダイス)である」ことを知る。

 そして最後の経文
「様々な行いの中で、警句とともに訓練せよ」

 アティーシャは現実逃避主義者ではない。
彼は 現実逃避を教えているのではない。
気に入らない状況から、離れるようにと言っているのではない。

 彼は言うーーーあなたは ボーディチッタの機能を学ばなければならない、ブッダ意識の機能を学ばなければならない、あらゆる種類の状況においてーーー市場で、修道院で それを学ばなければならない。
群集で人々と共にいる時、あるいは洞窟の中に独りでいる時、友人と共にいる時、あるいは敵と、家族と、親密な人々と、そして見知らぬ人といる時、人間や動物といる時、あらゆる種類の状況において、あらゆる試練において、あなたは 慈悲の、瞑想の機能を学ばなければならない。
なぜなら異なった状況での これらすべての体験は、あなたのボーディチッタを ますます成熟させるからだ。

 どんな状況からも 逃げてはいけないーーーもし逃げるなら、何かが あなたの中で欠けたままとなるだろう。
それだと、あなたのボーディチッタは成熟したもの、豊かなものにはならない。
その多次元性の中で 生を生きなさい。

 そして、私があなたに教えていることもそれだ。
生を全面的に生きなさい。
そして世間の中で生きなさい。
世間に染まってはいけない。
水面の 蓮の花のように世間の中で生きなさい

水の中で生きているが、水は それに触れてはいない。
ただ その時にだけ、あなたの中で ボーディチッタの花が咲く。
あなたの内側で開花する。
その時 初めて、あなたは究極の意識を知る。
それが自由、喜び、永遠の喜び、祝福だ。
それを知らずにいることは、生の要点全体を見逃すことになる。
それを知ることこそが、唯一の終着点(ゴール)であることーーーそれを 覚えておきなさい。

 そして覚えておきなさい。
アティーシャの経文は哲学ではない。
観念論や抽象論ではない。
それは 実践的、科学的だ。

 もう一度言おう。
宗教とは最も純粋な、知ること、という意味で科学だ。
しかし、それは化学や物理学のような意味での科学ではない。
それは 外側の科学ではなく、内側の科学だ。
外面の科学ではなく、内面の科学だ。
それはあなたを、マインドを超えた世界へと連れてゆく科学だ。
あなたを、未知なるもの、知ることのできないものの中へと連れてゆく科学だ。
それは 最も偉大な冒険だ。
それは 勇気、根性(ガッツ)、知性を持っている人々すべてへの 呼びかけと挑戦だ。

 宗教は 臆病者のためのものではない。
それは 危険な生き方を好む人々のためのものだ。

Osho,