saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「神秘家の道」OSHO 第八章 彼方なるものへの憧れ 3️⃣

Pp 157 ー 160

ヒンドウ教の寺院は、マンディールと呼ばれている。
周りの壁はマインドを表している。
そして中に入れば、その中心には神の像がある。
ジャイナ教の寺院は同じ理由で、チャイチャラヤと呼ばれている。
チッタを、マインドの層を完全に通り抜けられれば、人はその寺院の中心である意識に到達する。


日本には他のどの寺院よりもっと正確に、マインドと無心(ノーマインド)、マインドと意識の真実を表している寺院が一つだけある。
その寺院には壁しかない。
内側は空っぽだ。
仏像もなければ何もない。人はただ中に入って、 黙って座るだけだ。

何故そうなっているのかを尋ねる者もいたが、住職にさえ、 その理由が説明できない。

彼らはその象徴が表す意味を忘れてしまっているからだ。
それは寺には何の関係もない。
それが関係しているのは、人間のマインドだ。


ゴータマ-ブッダの死後 五百年間は、どの寺にもゴータマ-ブッダの像は置かれていなかった。
その代わりに、寺院の内側の壁には、大理石に菩提樹の木が彫り込まれていた。
そして仏陀がそこで座り、 光明を得たその木の下には何もなかった。
それは不思議ではあったが、極めて意味の深い象徴だった。
菩提樹の木によって、ゴータマ-ブッダが光明を得た場所が意味されていたーーーだが、彼が光明を得たとき、 そこにゴータマ-ブッダはいなかった。

それは空であり、ただ静寂であるに過ぎなかった。

それらの寺院は美しかったが、すべて破壊され消えてしまった。


私は、インドで ある寺を見たことがある------それをどんなふうに建てたのか、想像するのは難しい。
その建物には土台がない。
巨大な寺院だーーー円形の寺院で、非常に高く、おそらく五十フィートはあるだろうーーーそれに土台がないのだ。
その壁の下に糸を通すことができる。
そうやって寺の周りを一回りすることができるのだ。
そうやってみれば、どの壁のどこにも土台がないことがわかる。

まるで地面につながっていないのだ!

これはどういう意味なのか、 と私はそこの僧に尋ねた。
そこには ある愚かしい話があったが------それを聞いて私は言った。
「それは本当の意味じゃありませんね。
あなたが言っているような話に感心するのは、白痴だけだーーーこの寺が天から降って来たとか、神々が敵味方に別れてとか------」。

ジャイナ教と仏教には神はいないが、天国にいるものはすべて神と呼ばれるので、複数の神々がいる。

「神々が二手に別れて、この寺院を手に入れようと争っていると、この寺は彼らの手から滑り落ちて地上に落ちて来たのです。
そういう訳でこの寺には土台がないのです」
私は言った。
「これはまた馬鹿げた話だ。
第一、 天国がどこにあるか あなたにはわかっていない。
またもし、 天国が星の彼方のどこかにあるとしたら、この寺は途中で燃え尽きていますよーーーこんなに小さいものなんだから」


毎晩 何千という流れ星が見えるが、本当に落ちて来る星はない。
それは、 星 というのは非常に大きなものでーーーああいうのはただ、宇宙空間をさまよっている 大きな石に過ぎないからだ。


星が生まれるとき、 あるいは惑星が生まれるときにはいつでも------。
それは液体なのだが軸を中心に回転し続けている。
それが液体であり動いているために、多くの部分が放り出される------。

月は そんなふうにして地球から飛び出た。
それは地球の一部だった。
そして地球に こんなに大きな海があるのは、その月のためだ。
こういう海は、液体の地球が飛び出た場所だ。

何千という小片が宇宙空間に飛び出し、やがてそれは ある引力圏に達する。

その引力がそれらの小片を引き付けるときには、その力と速さのために、それらは燃え上がってしまう。
だから流れ星が見えるのは、ただ石が燃えているだけだ。
その速さのために、それは熱くなり ある所まで来て、それはただ炎となって燃え上がる。
大抵それは空中で消滅する。

非常に大きな石だけが、例えば カーバの石のように、地上に到達できた。

回教徒は あれを神の石と考えているが、神の石などではない。
あれは完全に燃え尽きることができずに、地上まで到達した石だ。
そういう石があるところは、他にもたくさんある。


だから私は こう言った。
「それはあり得ない。
こんな寺など消えていたはずです。
それに 神などいないーーーそれに いったいどんな神が、 こんなくだらない寺のために闘うって言うんです?
土台がないということ以外に、何も特別な所などない」


だが、私の理解では、その壁はマインドを表している。
そして内側には神の像は置いていない。
内側の空虚は、 意識を表している。
そして土台がないのは、人間のマインドには根拠がないと表しているのだ。
自分が 捨てると決めれば、何時如何なる時にも捨てることができる。
それには根拠がない。
それはただ意識の周りにまとわりついて、くっついているだけで、どんな根拠もない。


大いなる哲学的洞察が建築物に表されているというのに、ああいう白痴達は、神々が闘っていて、その寺がその手から滑り落ちて、地面に落ちたなどと話している。
彼らは、その意味をまるで滅茶滅茶にしている。
だが あの寺院を造った人々は、自分が何をしているかについての洞察を持っていたに違いない。

あれを まったく土台のない建物にするには、大変な努力がいったに違いない。
それは巨大な建造物で、殆んど十五世紀を生き延びていた。



生まれるたびに新しく、新鮮なものとしてやって来る大脳がある。

それは 肉体の 一部だ。

生命と同じく永遠な、 マインドというものがある。

それは 人が光明を得るまで、 その人間に まとわりつく。

それは 自分が生きてきた何生涯ものほこりに過ぎない。

人間の死後に マインドが放った記憶だ。

そして そういう記憶が意識の周りで待ちかまえている。
それは 厚い層になる。


瞑想とは この厚い層の中を、意識の水に到達するための 穴を掘る方法だ。

この故に、瞑想には 始まりはあるが、終わりはない。



第八章「彼方なるものへの憧れ」一番目の質疑応答、 終わり


「神秘家の道ーーー珠玉の質疑応答録」OSHO
翻訳 / スワミ-パリトーショ
発行 / 市民出版社

「神秘家の道」OSHO 第八章 彼方なるものへの憧れ 2️⃣

Pp 154 ー 157

将来 コンピューターが、人間の記憶能力を滅ぼしてしまうかもしれない危険性がある。
何しろ、コンピューターの方が遥かに正確だし、小さなリモコンならいつも身に付けていられるようになるからだ------。
自分の家にコンピューターを持てるようになるか、あるいは都市の共同のコンピューターに接続できて、リモコンを使ってどんな事でも解答を得られるようになる。
ソクラテスの結婚した日付までわかるようになる!

だが、コンピューターが提供できるのは、与えられた情報だけだ。
もしそれまでにプログラミングされたことのない新しい質問をしたら、コンピューターは無力だ。
どんな答えも出てこない。


脳についての状況も同じだ。
脳とは コンピューターだ。
ただの記憶装置のようなものだ。

そして私たちの教育のすべて、そのコンピューターにデータを入れることでしかない。
それは、自分が与えられたものしか、 答えられない。
物理学を学んだことがないのに、何か それについての質問をされたら、マインドには答えられない。
何しろ、自分の記憶にないのだから。

そうなれば、あなたたちが 思考と呼ぶものは、不毛な作業に過ぎない。
もともと その解答を持ってもいない、ある疑問の解答を求めて、記憶装置に直面するだけだ。
どんな新しい質問を出されても、それは機能を停止する。
コンピューターは無力だ。


だからこそ私は、真理について考えることはできない、光明について考えることはできない、愛について考えることはできない、と強調しているのだ。

生における偉大な事柄は すべて、 考えることができない。

なぜなら それを、 前もってコンピューターに与えておけないからだ。


学者は容量の大きなコンピューターを備えている。
その記憶はより豊かだ。
大学教授のはもっと豊かだ。
ただその記憶故に、尊敬されている人々がいる。

私たちの教育のすべては、記憶の訓練に他ならない。
それは 知性の教育ではない。

知性とは まったく別のものだ。
私たちの教育が教えることは、ただ 何を記憶しなければならないかだけだ。


ロシアでは、脳が正確にコンピューターに似ているという事実が認識された。
それならそれを苦しめ、 無用に悩ます必要がどこにある?
そこで試験では、学生達が図書館で本を調べたり、望む本を持ってきたりすることが許されるようになった。
必要になるかもしれない本はすべて、 試験場で手に入れることができる。
本に書かれているのに、記憶する必要はない。

だが、 あることがわかった。
しかもそれは、 状況をまるで変えるような事だった。

それまで「優」など貰えなかったような人たちが、「優」になった。
それまで「優」だった学生達が、その位置を失い始めたのだーーー「良」になり「可」になって行った。


何が 起こったのか?

解答を探すためには 知性が要る。
しかも 本はたくさんあり 時間は限られているーーー三時間だ。
学生達は五問答えなければならない。
適切で正確な情報をすべて見つけて解答を導き出すには、非常に油断のない知性が必要になる。

それまでいつも トップ-クラスにいた学生達が、その地位を失い始めた。
彼らには知性はなかったからだ。
彼らが持っていたのは記憶だけだった。
今度は その記憶は役に立たない。


これはすべて極めて素朴なことだ。
学生一人一人に小さなリモコンを与えればいい。
そうすれば彼の方は必要な解答を調べるだけでいい。
彼の知性は そのリモコンの使い方に現れるーーーいかにそれを賢く使うか?
いかにして頭が混乱せずにいられるか?
知性ある解答を見つけ出すために、どうその質問を明確に理解するか? ということの中にだ。
だが、それは記憶の問題ではない。

知性を教える、 別種の教育が必要になるだろう。


偉大な知性ある人が、さほど大した記憶の持ち主ではないということは、周知の事実だ。
また、大変な記憶を持った人々もいるが、そういう人たちには知性などまったくない。
そういう人たちの記憶は、殆ど奇跡的で信じられないほどだが、それはまったく機械的なものだ。


万年筆が発明されて、美しい手書きの文字が失われつつある。
旧式の単純なペンの方が、万年筆よりもうまく書ける。
万年筆で書けば速いし、何度も何度もインクをつける必要はない。
ペンの中にインクがある。
その手軽さとインクの出方のために、人々は速く書き始めた。
ゆっくり書くことの中にあった優美さが、 突然消えた。


同じことが、コンピューターに関しても起ころうとしている。
コンピューターは人の記憶に非常に役立つだろうが、それは否定的な意味でも機能するだろうーーー人は記憶力を持たなくなるだろう。
自分の友だちの名前まで、コンピューターで調べなければならなくなるだろう。
自分の住んでいる通りの名前まで、コンピューターで調べなければならなくなるだろう。
何しろ今となっては、自分の(バイオ)コンピューターを働かせる必要はないーーー機械装置を持っているのだから。


脳が問題ではない。
脳とは機械に過ぎないからだ。

問題は マインドという 脳の中味だ。

脳とは 入れ物に過ぎず、各々の生涯で 人は新しい入れ物を手に入れる。
その古い中味が移行して、人の意識を取り囲む層となる


だから、人は新しい始まりを手に入れると言うとき、私が言うのは 脳のことだ。
マインドではない。

だが英語では、その二つの言葉が同じ意味に使われている。

過去生の中に入り始めれば、みんなはマインドの世界に入って行くことになる。

それは膨大な世界であり、 一つ一つの層が、一つの生涯を顕わすことになるだろう。

その層をすべて意識して通り抜けたとき、 その時初めて人は、 自分の意識の中心に行き着く。


3️⃣へ 続く

「神秘家の道」OSHO 第八章 彼方なるものへの憧れ 1️⃣


English title : THE PATH OF THE MYSTIC, by Osho
神秘家の道 --- 珠玉の質疑応答録
講話 / OSHO
翻訳 / スワミ-パリトーショ
照校 / スワミ-アドヴァイト-パルヴァ
マ-ギャン-シディカ
発行 / 市民出版社

第八章「彼方なるものへの憧れ」Pp 152 ー 154

(質問)
私はしばしばあなたが、あらゆる子供はこの世に空っぽのマインドを持って、タブラ-ラサ(真新しい石版)としてやって来るのだとおっしゃっているのを聞いています。
にも関わらず、私たちが過去生からの記憶と条件付けを持ち運ぶことが、なぜあり得るのでしょうか?
これについて何か話していただけますか?



一つの区別が 理解されなくてはならない。
その区別とは、脳とマインドの区別だ。
脳は 肉体の一部だ。

あらゆる子供は まっさらな脳を持って生まれて来るが、まっさらなマインドを持って生まれて来るわけではない。

マインドとは、意識の周りにある 条件付けの層だ。
人は それを憶えてはいない。
だからこそ、不連続があるのだ。

それぞれの生涯で 人が死ぬと、その脳は死ぬ。
だがそのマインドは 脳から解放され、意識の上の層になる。

それは非物質的なもので、ある特定な波動に過ぎない。
だから我々の意識の上には、何千という層がある。


いつも私が、子供は タブラ-ラサであるマインドを持って生まれて来ると言うとき、私が言っているのは 脳のことだ。

マインドは 非常に古い。
存在と同じように古い。

それには 始まりはないが、終わりはある。

人が、何世紀にもわたって蓄積されてきたその層を、すべて捨てることができたその日、マインドは死ぬ。
それには 終わりがある。

同じようなことで 理解すべきなのは、光明には 初めがあるが、終わりはないということだ。
そこで人は、その二つを結ぶのだ。


マインドには始まりはない。
それは常に人と共にあった。
それから ある時がきて、人はそれを捨てる。

マインドの終わりが光明だ。

そこからは 光明が継続する。
それには 始まりがあって終わりがない。
その二つが一緒になって、過去から未来にわたる全永遠を覆う。


だが脳は、人が肉体に入るたびに生まれ、また肉体を離れるたびに死ぬ。
だがその中味はーーーそれこそがマインドだがーーーそれは死なない。
意識とともにとどまる。

だからこそ自分の過去生をーーー自分が獣、 あるいは樹木、 あるいは岩であったときのことさえーーー憶えていることがあり得る。

そのマインドのすべてが、まだその人のもとにある。
だが、心理学がマインドと脳の間に区別を設けないために、そして科学がどんな区別も受け入れないために------英語ではマインドと脳は、殆ど同意語になっている。
ときどき私が忘れて、脳という言葉を使う代わりに、マインドという言葉を使ってしまうのはそのためだ。


内なる実在への深い探索が為されてきた諸言語の中には、別々の現象を説明するたくさんの単語がある。

それらの言語の中には、どんなふうにしてもマインドと混同のしようもない、脳を現す単語がある。
英語の単語も、やはりサンスクリット語のマナから来ているーーーそれがマインドになった。

だが、マナは一つ一つの層を表す。
となると、そこには動物のマナも、 野菜のマナも、 人が通過して来ただけの数の、 別々の進化段階があることになる。


そしてサンスクリット語では、その全体は マナとは呼ばれない。
全体はチタムと呼ばれる。
それがチタムと呼ばれるのは、それが肉体の重要な部分、肉体の一片ではなくて、意識の重要な部分だからだ。

意識はサンスクリット語ではチェタナだ。
それがチェタナにまとわりつくために、それはチタムなのだ。

これらの言語は、単語に関して、その意味に関して明快だ。
だが、 その理由は明確だ。
彼らは働きかけ、その違いを発見したのだ。


チタムとは過去全体だ。
意識に集合的にまとわりついている すべてのマインドのことだ。
それは総て捨てられることになる。
そしてひとたびそれが捨てられれば、人の意識はまるで服を脱いだように裸になる。
この裸の意識こそが、実存(ビーイング)の究極の経験だ。


捨てられたマインドは、その人の脳の最下部に残っているだろう。
だから光明を得た人でも、それをもう一度見てみたいと思えば、その中を通り抜けてみることができる。
ちょうど自分の家の地下室に行って放り込み続けてきたガラクタを、ひと通り調べてみるように。


脳は最新の層だ。
だが、脳そのものは その層、 つまり内容ではない。
脳そのものは、ある機構に過ぎない。
それはバイオ-コンピューターだ。
コンピューターを買ったばかりの時は、それは空っぽだ。
何もインプットされておらず新しい。
それから人は、何でも自分が望むものをその中に入れ始めるーーー歴史、 科学、 宗教、 数学、コンピューターに試させたいと思うものどんなものでもだ。
コンピューターはそれを集める。

脳に記憶の機構があるのとまったく同じように、コンピューターにはメモリー-システムがある。
そして何かの情報がほしくなればいつでも、コンピューターにそれを聞けば、その情報を教えてくれる。

2️⃣へ 続く