saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「信心銘」Neither This Nor That by OSHO



「第二章 道は完全だ」(03)

 いいかね、極端に走ってしまったのは、人間だけではない。
社会もまた極端に走ってしまった。

東洋は 内向的なままだ。
それゆえの貧困だ。

誰がそれに責任があるのか。

何百万という人間が 毎日死んでいる。
それに 生きている人間も、本当に生きてはいない。
半飢餓状態だ。

誰がこれに責任があるのか。

その内向的人間たち、神秘家、詩人、あまりにも内面を多く語り、外側の世界を批難した者たちだ。

「外の世界は自分にはいらない」と言った者、「外側は間違っている」と言った者、「外の世界は批難されるべきものだ。内側に生きなさい」と言った者たちのせいだ。


この人たちが 内面の世界を外側の世界よりも高く持ち上げた。

かくて平衡は失われた。


 東洋は 内向者達を生み出した。
しかし、外側の世界の 美は消え失せた。

あなたたちには 東洋一円に広がる汚なさが見えている。

西洋人にとって、インドのこの汚なさの中にやって来て住むのがどんなに難しいことか、私には分かっている。
実に 汚ない。

誰に責任があるのか

なぜ これほど 汚ないのか。

なぜ、これほど たくさんの病気ががあるのか。

なぜ これほど 不健康と飢餓があるのか。

それは、外界が無視されたからだ。


 我々は 内面の純化に 関心があった。
「なぜ、外側の汚なさなどにかかずらう。放っておけばいい。
物質のことに過ぎない、心配するようなことではない。
我々の関心は 内的な清らかさだ。
なぜ肉体のことなど心配する。
なぜ 他人のことに心をなやませる」と。


 その結果が、東洋は ある種の不均衡になり、西洋は 別の種類の不均衡になった ということだ。

西洋は 外向的だ。
彼らは、未だかつて存在しなかったような たくさんの富を作り上げた。

外側の清潔さと 皇帝も羨むほどの立派な衣服、うまい食べ物、よい衛生状態、美しい環境、なにもかもだ------
だが、外向的だ。

内面の存在は 貧しい。

内なる存在は 空っぽだ。


 だから東洋は、内なる存在について 西洋に教え続ける。

東洋の導師(グル)達は 西洋に瞑想の仕方を教え続け、西洋の先生(グル)達は、立派な技術者になる方法、立派な電子工学者になる方法、都市計画者になる方法、より大きな富の生み出し方、技術進歩のさせ方、生活水準の上げ方を東洋に教え続ける。

だから、医学を学ぶには、西洋に行かなければならないし、瞑想を学ぶには、東洋に来なければならない。

OSHO

(04)に 続く---


信心銘 Neither This Nor That
著者  OSHO
訳者  スワミ. パリトーショ
発行所 (財)禅文化研究所

「信心銘」Neither This Nor That by OSHO



「第二章 道は完全だ」(02)


 そうなったら、解決されるべき問題など何もない。

〔生〕は もはや謎ではない。

それは 生きるべき、楽しむべき神秘、踊るべき舞踏だ。

そうなったら、人は〔生〕との どんな葛藤の中にもいない。

そうなったら、人は ここで何をやっているのでもない。

その時 人は ただ楽しんでいるだけだ。

その時、人は 至福に満たされている。


 これが 天国の意味するものだ---何をするようにも期待されていないところ、人が 至福をかせぎ出そうとはしないところ、至福が自然であり、人の上に降りそそいでいるところだ。

これは、今、そして ここで起こり得る。

それは 僧璨に起こった。

それは 私に起こった。

あなたにも 起こり得る。

もしそれが 一人の人間に起こり得るなら、それは すべての人に起こり得る。



“ 外側の物事のもつれの中にも、
 内側の空無の中にも、住んではいけない。
 穏やかに、何を求めるでもなく、
 大いなる一体性の中にとどまるがいい。
 そうすれば、誤った物の見方は自ずから消えよう。”


 外側と内側を 分けてはならない。
僧璨は、「自分は 外側に関心がある」と言ってはならない、と言う。


 二種類の人々がいる。
そして そのどちらも惨めになる。

C・G・ユング人間性を 二つのタイプに分けた。
そのひとつを 彼は外向的と呼び、もうひとつを内向的と呼ぶ。

外向的人間は 外の世界に関心がある。
行動的な世間的な人々だ。
こういう人たちは、富、名声、地位、権力を 追い求める。

彼らは 政治家になり、社会改革家になる。
偉大な指導者、大実業家になる。
物に、外側の世界に関心がある。

彼らは 自分自身には関心がない。


 他方、内向的な人々がいる。
彼らは あまり行動的な人達ではない。

何か しなければならないことがあれば、それをするが、そうでないかぎり、特に何かをしたい という欲求は持っていない。
目を 閉じたままでいたいと思う。

こういう人たちは 詩人、神秘家、瞑想者、思索家になる。
世間には関心がない。
自分自身にだけ興味を持っている。

彼らは 目を閉じて エネルギーを内に向ける。

だが 僧璨は、その両方が 間違っている、それは彼らが 二つに分かれているからだ、と言う。

外向的な人は いつも自分の内側で 何かが欠けているのを感じることになる。

非常な権力者になるかも知れないが、内面深くでは、自分が無能で、無力なのを 感じることになる。

外向的には 大変な富を蓄えたかも知れないが、内面的には 貧しさを感じることになる。

世間的には 偉大な成功者かも知れないが、よく見れば、本人は その内面の深くでは 自分が失敗者だと知っている。


 彼は 均衡がとれていない。
外側のものにばかり注意をはらいすぎた。

一方の 極端に行ってしまったのだ。

極端がある所には、必ず 不均衡がある。

そして 詩人、黙想家、神秘家であった人、いつも自分の 内側にとどまっていた人は、外側の 世間の中で豊かでないために、常に自分には 何かが欠けていると言う感じを持つことになる。

ところが、外側の世界もまた美しいのだ。

そこには 花があり 星がある。
日が昇り、川は流れ、滝はこだまする。

こういう人が貧しいのは、全宇宙を否定しているからだ。
一人で 洞窟の中に住んで来たのは 不必要なことだった。
その間に、動いて たくさんの神秘を、まわり中にある 無数の神秘を知ることができたのだ。

彼は閉じて、自分の内面に閉じこもったまま、囚われ人になっていた。

この二つは 両極端だ。


 極端を 避けなさい。

外側と内側を 区別してはいけない。

そして ユングのタイプのひとつにならないことだ。

外向的にも 内向的にも なってはいけない。


 僧璨は、「流れていなさい。平衡をとっていなさい」と言う。

外側と内側は ちょうど左脚と右脚のようなものだ。
なぜ 一方を選ぶ必要がある。
一方を選んだら、動きは すべて止まる。

それは 二つの 目のようなものだ。
もし、目を ひとつだけ選んだら、見ることはできるだろうが、見える世界は 立体的ではなくなる、遠近感は失われる。

人は 二つの耳がある。
一方だけを 使うこともできる。

自分は 左耳のタイプだとか、右耳のタイプだとか という考えに取り憑かれることもあり得る。

だがそれでは、損をする。
それでは、あとの半分の世界が 閉じられてしまう。


 内側と外側は、まさに 両目、両耳、両足のようなものだ。
なぜ選ぶのか。
なぜ選ばずに 両方を使わない。

それに なぜ分けるのか、自分は 一人なのに---左足と右足は、ただ 二つに見えているに過ぎない。
その両方の中を 自分が流れている。

自分という 同じエネルギー、同じ存在が。

人は 自分の両目を通して見る。

なぜ 一方の極端に 動くのか。

OSHO


(03)に 続く---

「信心銘」Neither This Nor That by OSHO



「第二章 道は完全だ」(01)

 ニーチェは言う。
「人間は超えられるべきものだ。人間は、存在ではない。
動物には存在がある。神には存在がある。
だが、人間は まだ存在になっていない。
人間は ひとつの移行、過渡期だ。
ひとつの完全から 別の完全への移行。
人は 中間で引き裂かれている」と。


 僧璨は、戻れと言う。
そしてもし、あなたたちが尋ねるなら、私は 僧璨の方が パタンジャリより易しいと言おう。

結局は、同じことが起こる。

たくさんの努力が、あなたを 無努力に連れて行くことになる。

何も努力もしなくても、やはりあなたは 無努力になる。
なぜなら、努力は 決して目的地にはなり得ないからだ。

努力は 手段でしかあり得ない。
人は、どこまでも永遠に 努力し続けることはできない。

人は 無努力の状態に至るために 努力するのだ。


 パタンジャリにあっては 努力は通り路、無努力が終点だ。
努力は手段、無努力が目的だ。

僧璨の道では、無努力が 手段で、無努力が 終点だ。

僧璨では、最初の一歩は 最後の一歩だ。

僧璨にあっては、手段と目標の区別はない。
だが、パタンジャリには 区別がある。
人は たくさんの段階を 通り過ぎなければならない。


 だから、パタンジャリの道では、光明は 段階的に起こる。

僧璨の道では、光明は一瞬のうちに、まさに今の この瞬間にも、起こり得る。

それは 突然のものであり得る。

もしあなたが 僧璨を理解できるなら、それ以上に 素晴らしいものはない。
だが、理解できなければ、その時は パタンジャリが唯一の道だ。


“ 道は大いなる虚空のように完全だ。
 足りないものも、余計なものもない。
 しかり、いいとかいけないとか選り好みをするばかりに、
 本当の姿が見えないだけだ。”


 私達が 本当の姿を見ることができないのは、そのためだ。

受け容れたり、拒否したりするためなのだ。

人は 自分の考え、意見 偏見を持ち込む。
そして あらゆるものを色づけしてしまう。

そうでなければ、すべては完全だ。

人は、ただ見ればいいだけだ。
濁りのない目で、どんな考えも持たずに ただ見る。

どんな拒否も、あるいは 受容もなしに、ただ 純粋に見る。

まるで、自分の目の背後には 思考(マインド)などないかのように、あたかも 自分の目が ただの鏡に過ぎないかのようにだ。

鏡は「美しい」「醜い」を 言わない。


 鏡は、前に来たものを 何でもただ映すだけだ。

そこには どんな判断もない。

もし、あなたの目の背後に 思考(マインド)が なかったら、その目が ただ映し出すだけだったら、それがただ見るだけで、「これはいい、あれは悪い」などと 言わなかったら、非難したり、賞賛したりしなかったら、もしそうなら、あらゆるものは 申し分なく明瞭で、為されるべきことなど何もない。

この明晰性、意見も偏見も持たない この目---それで、あなたは 光明を得ている。

OSHO

(02)へ 続く---

OSHO ジャパンのFB 投稿記事です。

空虚さを埋める---


多くもてばもつほど、あなたは愛することができなくなる。そして愛は扉だ。つまり、愛することができないほど、あなたは多くの物を所有するようになる。物が代用品になる。

 https://www.osho.com/ja/read/featured-articles/emotional-ecology/avoiding-the-void

OSHO ジャパンのFB 投稿記事です。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1884670354878973&id=177517668927592

 
あなたは心としてではなく、意識として生まれる。
あなたの内奥の核は意識であって、心ではない。
心とは蓄積された過去、過去の残骸にほかならない。
あなたはそれとは全面的に異なっている。
それを見守っていると、だんだん距離が見えてくる。
思考が自分のなかに起こってきたら、それを見守るがいい。
いかなる裁きもなしで見守ることだ。
賛成も反対もしてはいけない。
ただ単純にそれを眺め、それに眼を注ぎ、それを映し出す鏡のようになるがいい。
すると、ひとつのことが確かになる
それは自分から分離している。
思考は来ては去るが、あなたは永遠にとどまる。
鏡のなかに映っているものは、鏡そのものではない。
多くの映像が来ては去るが、鏡はそのままだ。
鏡とは、この映し出す能力にほかならない。
思考はそこにある怒りや強欲や嫉妬やなにかの思考、
なんらかの種類の想念がある。
が、それはあなたではない !
Osho