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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

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(OSHO 講話/抜粋)


私達は
独りで生まれ、
独りで生き、
独りで死ぬ。
 
「独り在ること」は
まさに私達の本性だ。
でも私達は
それに気づいていない。
気づいていないからこそ、
いつまでも
自分自身と疎遠なのだ。
 
自分の
「独り在ること」
というのは、
実に美しく、
至福と、
静寂と、
平安に満ち、
存在と共に
寛いでいるものだ。
なのに、
それを追求する代わりに
「孤独」と
取り違えてしまう。

「孤独」(ロンリネス)とは
「独り在ること」(アロンネス)の
取り違えだ。
いったん自分の
「独り在ること」を
「孤独」と取り違えると、
その文脈がすっかり変化する。
独り在ることには美があり、
壮大さがあり、
肯定性がある。
 
孤独とは、
貧しく、
否定的で、
暗く、陰気だ。
人はみな孤独から逃げ去る。
それは傷のようなものだ。
痛い。
そこから逃れる
唯一の道は、
群衆の中に入ること、
社会の一員になること、
友達を持つこと、
家庭をつくること、
夫や妻を持つこと、
子供を持つことだ。

この群衆の中で
基本的な努力は、
自分の孤独を忘れる
ということに向けられる。

でも
今まで誰ひとり、
それを上手く
忘れた人はいない。
自分にとって自然なことは、
無視しようと
することは出来るが、
忘れることは出来ない。
それは何度も何度も
自己を主張する。
そして
問題は一層複雑になる。

なぜなら一度も、
それをあるがままに
見たことがないからだ。
まるで当然のごとくに、
自分は孤独に
生まれついたと思っている。

辞書では意味は同じだ。
それは辞書を作った人々の
マインドを表している。
孤独(ロンリネスloneliness)と
独り在ること(アロンネスaloneness)
の間の大変な違いを、
彼らは理解していない。

孤独とは
ひとつのギャップだ。
何かが欠けている。
そこを何かで
埋めないといけない。
ところが何物でも
埋めることが出来ない。

なぜなら、
まずそれは第一に
誤解だからだ。
年を取れば取るほど、
そのギャップは大きくなる。
独りになることが怖いから、
人々は馬鹿げたことを
いろいろやる。
たとえば
独りでトランプをやる。
相手はいない。
トランプの遊びの中には、
一人の人間が両側から
プレー出来るようなものがある。

何とかして
忙しくしていたい。
その忙しさは
人間相手であったり、
仕事の為であったりする・・
仕事中毒の人間だ。
そうした人間にとっては、
週末がやって来るのが怖い。
何をしたらいいのか、
何もしなければ
独りぼっちになる。
それほど苦痛が伴うことはない。
知って驚くだろうが、
世界中で
事故が一番多いのが週末だ。
人々は車に乗ってリゾート地へ、
海辺へ、高原へと押しかける。
数珠つなぎだ。
着くまでに8時間も、
10時間もかかったりする。
そしてすることは何もない。
みんな群れをなして
やって来ているからだ。

これでは自分の家、
自分の近所、
自分の街の方が、
この海辺のリゾートよりも静かだ。
みんなやって来ている。
とにかく、
何かやることが・・
人々はトランプをしたり、
チェスをしたり、
何時間もテレビを見る。
平均的アメリカ人は
1日5時間テレビを見る。
またラジオを聴いたりする・・
自分自身を避ける為に。
このようなことをするのも、
ひとえに
独りになりたくないからだ。
それはとても恐ろしい。
そしてこの観念は
他人から来たものだ。
独りが恐ろしいものだなんて、
一体誰が言ったのか?

「独り在ること」を
知った人間は、
全く別なことを言う。
独りで在ることほど美しく、
安らかで、
楽しいことはない。

ところが
あなたは群衆に従う。
取り違えて
暮らしている人は
とても多い。
誰がツァラトゥストラ
ゴータマ・ブッダのことなど
かまうだろう。
こうした一個人は、
多分間違っていて、
多分幻想を抱いていて、
多分自分や他人を
だましているのだろうが、
大多数の人々が
間違っているはずはない。
そして
大多数の人々によれば、
独りぼっちになることは、
人生で最悪の体験だ。
地獄だ。

でも
独りぼっちになることの地獄、
その恐怖ゆえに
創り出された人間関係は、
決して満足を
もたらすことはない。
その根幹そのものが
毒されている。
あなたは
相手の女性を愛していない。
孤独になりたくないから
彼女を使っているのだ。
彼女の方も
あなたを愛していない。
彼女もまた
同じパラノイアの中にいる。
独りぼっちになりたくないから、
あなたを使っているのだ。

よくあることだが、
愛の名においては、
どんなことでも起こり得る・・
愛を除いては。
争いも起こるだろうし、
ケンカも起こる。
それでも
孤独であるよりはましだ。
少なくとも誰かがそこにいて、
あなたは忙しい。
だから
自分の孤独を忘れられる。
でも愛は不可能だ。
なぜなら、
愛の基礎となる
土台がないからだ。
愛は決して恐怖からは
成長しない。


Osho - The Golden Future

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(OSHO の講話/抜粋---)


これらの
呂祖師の言葉は
ひじょうに神秘的だ。
深い愛に満ち、
共感できる
ハートをもって
理解しようと
してみなさい。

聴き方には二つある。

ひとつは
内側で
絶えずあら探しをして、
とやかく口をはさみ、
ものの善し悪しを決め、
それが
自分に合致するかどうか、
自分の知識に
適合するかどうかを
判定している
批評家の聞き方だ。
批評家は
絶えずものを比べて、
品定めをしている。
それは
これらの美しい経文を
理解するに
ふさわしい態度ではない。
これらの経文は
批評の好きな
人の手にはおえない。

これらは
共鳴できる力を
そなえている人、
あるいは、
さらに言うなら
感情を
分かち合うことができる人、
波長を
合わせることができる人、
こころを開き、
全一に耳を傾けることが
できる人にのみ
開かれている。

そうすれば
肉体のハートだけでなく、
深いところに隠されている
霊的なハートまでもが
揺り動かされる。

呂祖師は言った。
四つの詩句は、
気(エネルギー)の空間に
精神を結晶させる。

あなたには
エネルギーがある、
あなたは必要とする
すべてのものを
もち合わせている。
それなのに
あなたは貧しく、
いまだに
乞食のままだ。
あなたは
自分のエネルギーを
使ったことがない、
自分の財宝を
まだ開けてみたことがない。
あなたは
神から授けられたものに
目を向けたことすらない。
あなたは
内側を見ずに
外に駆けだしてゆくせいで
惨めになる。

そして、
その惨めさは
つづいてゆく。
というのも、
あなたを
満足させるものは
外界には何ひとつ
見つからないからだ。
外の世界で
何かを見つけた者など
ひとりもいない。

アレクサンダー大王でさえもだ。
あなたはこの地球をそっくり
手中におさめることもできる。
あなたはこの七つの大陸、
全世界を支配する
天輪聖王(チャクラヴァルテイン)に
なることもできる。

以外に思うだろうが、
現代の地理学によれば
大陸は六つしかないのに、
古代インドの地理学では
大陸は七つあることに
なっている。
そこには
アトランティス大陸
含まれているにちがいない。
そして
七つの大陸すべてを
制覇した者は
「天輪聖王」と呼ばれている。
たとえ
天輪聖王になったとしても、
あなたは貧しいままであり、
何ひとつ得てはいない。

それどころか、
あなたは多くのものを
失っているだろう。
なぜなら、
あなたは一生をかけて
つまらないもの、
世俗的なもの、
意味のないもの、
無益なものを求め
格闘してきたからだ――
そういったものは
いつでも
死によって
取り去られてしまう。
内なる何かを
得ないかぎり、
あなたが
豊かになることはない。

内なる王国だけが
人を豊かにする。
死ですら
その豊かさを
取り去ることが
できないからだ。
それが
奪い去られることはない。
それが
破壊されることはない。
それが
取りあげられることはない。

ひとたびそれを知れば、
それは永遠に
あなたのものになる。

あなたには
内なる空間がある。
あなたには
内なるエネルギーがある。
すべてのものを
手に入れることができる。

あなたはまだ
それを
のぞき込んだことが
ないだけだ。
あなたは
すばらしいヴィーナ(弦楽器)を
手にしているのに、
まだそれに
触れたことさえない。
あなたはそのなかに
どんな音楽が含まれているのか
まだ見たこともない。
あなたはそれを
ほとんど忘れかけている。


Osho - The Secret Of Secrets