saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…「 人 間 」

…友人のFB投稿記事です。

(OSHO 講話/抜粋)


人間の二元性
その苦しみと可能性
人間とはジレンマだ。
エスとノーの両方だ。

あなたが
そのように感じるのは、
あなたが
異常だからではない。
それは人間の
あたりまえの状態だ。

人間は、
半分は地から、
半分は天から
できている。
人間は、
物質と意識から
できている。
塵と、
神聖なるものから
できている。
人間とは緊張だ。

ニーチェの言葉を
借りれば、
「二つの無限の間に
 張られたロープ」だ。

・・・

人間は、
その自然な状態で、
分裂した存在だ。
分裂は
病気ではない、
症状ではない。
それは、
人間としての
正常な状態だ。

エス
ノーが極端に分離し、
"and"という言葉によって
結ぶことさえ
できなくなったときにだけ、
それは
病気のように見える。

エス
ノーの間に
橋を架けられなくなった
ときにだけ、
それは
病的なものとなる。

さもなければ、
あらゆる人間は、
つねに
二元性のなかにある。
「あれでもない、
 これでもない」
という状態にある。

どのような動物も、
けっして
そのような状態にはいない。
犬は犬、
ライオンはライオンだ。
木は純粋に木であって、
岩も純粋に岩だ。
それらのなかには
二元性がない。
分裂がない。

人間とは
二元的な存在、
二重の存在、
分裂した存在だ。
これは
人間にとって
不運なことだが、
大きな喜びの可能性を
約束するものでもある。

これは
人間にとって
苦しみだが、
その苦しみのなかから、
大きな喜びが生まれる。
どんな動物も、
人間に可能なほどの
喜びを感じることはない。

・・・

空を飛ぶ鳥は
自由に見えるが、
自由について何も知らない。
ただ人間だけが、
たとえ
牢獄のなかにいても、
自由について知っている。

だから
人間は苦しむのだ。
一方では
自分の束縛に
気づきながら、
一方では
自由の可能性に
気づいている。
一方では
現実を、
みじめな現実を
自覚しながら、
一方では
とほうもない
光に輝く可能性に
気づいている。

・・・

人間は、
どんな動物よりも
不幸せになれる。
嘆き悲しみ、
涙を流し、
自殺したりする動物が
いるだろうか。
また、
腹の底から
大笑いする動物が
いるだろうか。
それらは、
人間だけに
可能なことだ。
そこに
人間の偉大さがある。
だが、
その偉大さは、
不安の源でもある。

Osho - The Book of Wisdom

…「不安---」

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(OSHO 講話/抜粋)

一般に
信じられているように、
欲望が
不安を
生みだすのではない―
不安が
欲望を生み出すのだ。
人は「不安」そのものだ。

先日、
私はあなた方に言った。
動物には不安がない、
と。
それは彼らが
何かになる(become)
必要がないからだ―
彼らはある(are)。

イヌはイヌであり、
トラはトラであり、
それで全く問題ない!

トラはトラに
なろうとしていない。
トラはある!
トラはすでにある!
いっさい
何かになる必要はない。

動物の世界には
不安というものがない。
ブッダの世界にも
不安というものがない。
彼らは到着しており、
なっているからだ。
彼らはシッダ、
存在(being)だ。
もはや
目標とするものはなく、
動きはない。
旅は完結した。
彼らは
<わが家>に
到着している…。

この二つの間に
人間がいる―
彼は半分は動物、
半分はブッダだ。
まさに
そこに不安がある。
不安とは
この緊張だ。

あなたの一部は
動物に
戻りたがっている。
それはあなたを
いつも引き戻そうとする。
それは言う。
「戻っておいで!
 あんなに
 すばらしかったじゃないか―
 どこへ行くつもりだい?」

もう一方の部分は
未来へ希望を抱き続ける。
何らかの間接的な形で、
あなたは
ブッダになることが
自分の天命であることを
熟知している。
種子はある!
そして、
種子はあなたに
言ってやまない。
「土を、
 正しい土壌を
 見つけ出せば、
 おまえは
 ブッダになるだろう。
 戻ってはいけない!
 前に進め…」

この綱引きが
「不安」だ。

「不安」は
理解されるべき
最も重要な言葉の
ひとつだ。
なぜなら、
それは単なる言葉に
とどまらないからだ。
それは、
まさに人が置かれている
状況だ。
これが人間の
ディレンマだ―

生きるべきか、
死ぬべきか?
これであるべきか、
あれであるべきか?
どこへ行ったらいいのか?
人は十字路で
立ち止まっており、
すべての可能性が
開かれている。
だが、
一つの可能性を選んだら、
ほかのすべての可能性を
捨てなければならない―
そこに恐れがある。

間違った選択を
したかもしれない。
右に行けば―
誰にわかるだろう?―
左に行く方が
正しかったかもしれない…。
これが「不安」だ。

どこへ行ったらいいのか?
何をしたらいいのか?
何をやるにしても、
不安がなくなることはない。

動物になってしまえば、
ブッダの部分が
それに反逆しようとする。
自分の動物の部分が
喜ぶことをやってみれば、
ブッダの部分が
あなたの中に
罪悪感をつくりだす…。
ひとつの部分に従えば、
もうひとつの部分が
罪悪感を感じさせる。

その逆もしかり。
これが「不安」だ。
この不安は
まさに実存的なものだ。
それに苦しむ者もいれば、
苦しまない者もいる
ということはない―
それはない。
それは実存的だ。
誰もがその中に
生み落とされている。

人類はその中に
生れついている。
人間は不安の中に
生れついている。
それが人間に
与えられた課題だ。
それは彼が
とかねばならない問題、
彼が越えなければならない
問題だ。

さて、
それを超越する方法は
二つある。
ひとつは
世間的な方法で、
それを
「欲望」と呼んでもいい。
欲望は
この不安を隠すやり方だ。
あなた
は狂ったように
金を稼ぐことに奔走する。
金もうけに夢中になり、
実存的な不安のことは
すっかり忘れてしまう。
そうなれば
真の問題について
考える時間も、
手がかりもなくなってしまう。
あなたは
すべてを脇におしやって、
金、さらなる金の追求に
のめり込む。
そして
金を得れば得るほど、
さらに大きな欲望が
起こってくる。
この金や政治権力を
求める欲望は、
不安を隠すための
覆いにほかならない…。

欲望は
不安を避けるやり方だが、
ただ避けることしかできない。
避けることで、
それを打ち壊すことは
できない。

欲望は
人に小さな不安を
与えるが、
いいかな、
それは
ごく小さな不安であって、
実存的なものではない。
もちろん、
金を稼いでいる時も、
あなたはいくつかの
不安はあるだろう―
取引のことや
株式市場のこと、
あれやこれやのこと、
それから価格。
多くの金を注ぎ込んだが、
それで
もうけることができるか、
それとも損するか?
こういった
小さな不安がある。

それは
ほんとうの不安とは
比べものにならない。
それは
ほんものを避けるための
トリックだ。

欲望は不安の隠蔽だ。
それはトリックであり、
策略だ。
そして、
瞑想とは、
その覆いをはがすことだ…。

真の瞑想は
テクニックではない。
真の瞑想は
単にくつろいで、
静かに坐り、
あるがままに
ものごとを起らせることだ。

すべての不安が浮上して、
表面化するのを許しなさい。
そして、
それを見守り、
見守り続ける。
それを
変えることは何もしない。
目撃が真の瞑想だ。
その目撃の中で、
あなたの仏性は
さらにもっと
力強いものになる。
目撃は仏性の滋養だ。
そして、
仏性が
力強くなればなるほど、
不安はいっそう
少なくなってゆく。
あなたの
仏性が成就した日、
すべての
不安は去っている。

Osho

…今/ここ---

…FB に 友人が投稿した記事です。

(OSHO 講話の抜粋---)

私のメッセージは
実に単純だ。

生を
できるかぎり
危険に満ちて
生きなさい。
生を全面的に
強烈に
情熱的に
生きなさい。
なぜなら、
生よりほかに
神はないからだ。

フリードリヒ・ニーチェ
「神は死んだ」と言う。
それは間違いだ。

なぜなら、
神など最初から
そこにいなかった
からだ。
どうして
その神が
死ぬなんてことがある…?

生はある。
今までも
ずっとあったし、
これからも
常にあるだろう。

自分を許しなさい…
そして
私はくり返し言う、
自分が
生に乗っ取られることを
許しなさい。

過去のいわゆる宗教は、
まさに
その逆を
教えつづけてきた。

彼らは
「放棄しなさい」
と言う。
私は
『祝いなさい』
と言う。

彼らは生を否定し、
私は肯定する。

彼らは、
生は何か
間違ったもの…
幻影のようなものだと言う。
そして、
彼ら自身の
マインドの投影以外の
何ものでもない…
神という
抽象的な概念を創りだし…
その投影を崇拝する。
それは
実に非知性的で、
馬鹿げているから、
何百万もの人々が
こうした
まったくのたわごとを
どうして信じてきたのか、
不思議なくらいだ。
ものごとのあるがままが、
マインドの
抽象にすぎないもののために
否定されている。

神とは
言葉にすぎない。
だが彼らは、
神は実在すると言う。

生は‘現実’だ。
あなたは生を
自分のハートの
ときめきのなかに
感じる。
生は
あなたの血のなかで
脈打つ…
生は至るところにある…
花に、
川に、
星に。

それなのに
彼らは、
これらは
すべて“マーヤ”だ、
すべて幻影だと言う。
生は
夢が作られるのと
同じ材料で
作られていると言う。

が…、
彼らは神を創る
もちろん、
誰もが
自分勝手な想像で
神を創る。
だから…
何千もの神々が
創られてきた。

それは
あなたの想像だ。
あなたは
頭の四つある神を
創ることもできれば、
千の手をもつ神を
創ることもできる。
それは‘あなた’次第…
あなたの ゲームだ。
そして、
これらの人々は
ずっと言いつづけ…
他人のマインドを
毒しつづけてきた。

私はあなたに言おう、
生が 唯一の真理だ。
生よりほかに神はない。

だから、
生のすべての
形、 色、 次元…
その虹全体、
その音楽の
あらゆる音色において、
自分自身が
生に乗っ取られるのを
許しなさい。

もし、
あなたが
この単純なことを
やっていけるとしたら…
それは単純だ。
なぜなら、
それはただ
‘手放し'という問題に
すぎないからだ。

川を
押し進めてはいけない。
川があなたを
大海へ連れてゆくに
任せなさい。

それはすでに
道の途上にある…
あなたは
ただくつろぐがいい。
緊張したり、
スピリチュアルに
なろうとしては
いけない。
物質と精神のあいだに、
いかなる境界線も
創ってはいけない。

存在はひとつだ。
物質と精神は
同じコインの
表と裏にすぎない。
くつろぎなさい。
休みなさい。
そして、
川と伴に行きなさい。

ギャンブラーで
いてごらん。
ビジネスマンで
いてはいけない。
そうすれば…
あなたはもっと
神を知るだろう。

なぜなら
ギャンブラーは
危険を冒すことが
できるからだ。
ギャンブラーは
計算高くない。
彼は
自分のもっているもの
すべてを
賭けることができる。

しかし、
すべてを賭けて
待っているときの
ギャンブラーのスリル……
さぁ、どうなるか?
まさに…
その瞬間に、
窓が開きうる。
その瞬間が、
内なる
ゲシュタルトの変容
となりうる。

大酒飲みになりなさい。
生に、
存在のワインに
酔いしれなさい。

しらふでいるのは
やめなさい。
しらふの人というのは…
死んでいる。

生のワインを
あおりなさい。
それは
ほんとうに
たくさんの詩と
多くの愛と
多くの ジュースに
あふれている。

あなたは
いつでも春を
連れてくることができる。
ちょっと春に声をかけて…
太陽と風と雨を
あなたのなかに
入らせなさい…。

スピリチュアリストたちが
私に反対するのは、
まさに
このメッセージのためだ。
なぜなら、
彼らは
私が神を否定していると
思っているからだ。

私は
神を否定してはいない。
私がはじめて、
神とは
本当は“なに"なのかを
明らかにしている。
私は神に生命を与えている。
私は神をあなたに近づける。
あなたの
ハートそのものよりも
近くに…
なぜなら、
神はあなたの
実存そのものであり、
かけ離れた何かではなく、
遠くにある何かではなく、
空の上にある何かではなく、
‘今ここ'だからだ。

私は
“そのとき、そこで”
という
観念そのものを
壊そうと している。
私のビジョン全体は
‘今’と‘ここ’のものだ。

なぜなら、
ここよりほかに
場所はなく、
今よりほかに
ときは
ないからだ。

Osho - Guida Spiritual

…「成果は ひとりでにやってくる---」OSHO

(友人のFB 投稿記事です)
講話/抜粋

成果は副産物だ。
成果のことは
考えなくてもいい。
それについて考えると、
それを
得られなくなる―
それが条件だ。
成果のことを
考えてはならない。
成果のことを
考えはじめたら、
あなたは
分裂してしまうからだ。

そうなったら
修行は
中途半端なものになり、
実質のある精神(マインド)は
未来に飛んでゆく―
「どうやって成果をあげよう」
と。
あなたは
すでに成功した自分の姿を、
ブッダになった自分の姿を
夢見はじめている―
どれほどの美が、
どれほどの恵みが、
どれほどの祝福が
あなたのものになるかを。

精神が
貪欲(どんよく)さの、
野心の、
エゴのゲームを
演じはじめている。
けっして
成果のことを
考えてはならない。
成果はおのずと生まれる
副産物だ。

本当に誠実に
自分自身に
働きかけていたら、
影があなたに
つきそうように、
成果はおのずと
ついてくる。
成果をあげることを
目的にしてはならない。
呂祖が
「成否のことは
 思い煩わず、
 静かに黙々と」
 働きかけなさい」
と言うのはそのためだ。

そして、
いいかね、
成果のことばかり
考えているということは、
失敗の恐れも
念頭から離れない
ということだ。
それらはともに
連れそっている。
それらは
ひとつの包みに
入っている。
成功と失敗は
切り離すことができない。

成果のことが
頭にあるかぎり、
どこか奥深いところに
恐怖もある。
あなたがそれを
なし遂げられるかどうか
誰にもわからない。
あなたは
失敗するかもしれない。

成果を思い浮かべると
未来に連れ去られ、
貪欲さというゲーム、
自我の投影、
野望が湧き起こる。
そして
恐怖もまた
あなたに動揺を与え、
身震いさせる―
あなたは
失敗するかもしれない。
しくじる恐れがあるために、
あなたはたじろぐ。

このたじろぎ、
この欲望、
この野心を抱えながら、
静かに
働きかけることなど
できない。
その実践は
混乱したものになる。
ここで
働きかけていながら、
目は向こうを見ている。
この道を歩きながら、
目はどこか
空の彼方を見つめている。

星の研究をしていた
ギリシャ
占星術師のことを
聞いたことがある。
ある満天の星空の夜に、
彼は井戸に落ちた。
星を見ながら
歩きまわっていたからだ―
星に夢中になるあまり、
彼は自分が
どこにいるのか
忘れてしまい、
どんどん
井戸に近づいていって、
とうとう落ちてしまった。

近所に住んでいた老女が
物音を聞いて駆けつけた。
彼女は井戸をのぞき込み、
縄をもってくると、
偉大な占星術師を
引きあげた。
占星術師は
大いに感謝した。
彼は老女に言った。
「ご存じでは
 ないでしょうが、
 私は国王から
 特別に任命された
 王宮の占星術師です。
 料金は安くありません―
 大金もちだけが
 未来を占うだけの料金を
 払えるのです。
 でも、
 あなたは
 私の命の恩人です。
 明日どうぞ
 私のもとにおいでください。
 あなたの手相を読み、
 出世図を調べ、
 星占いをしてあげましょう。
 そうすれば、
 あなたの未来が
 何から何まで
 はっきりとわかりますよ」

老女は笑いだして、
こう言った。
「そんなことは
 すべて忘れちまいな。
 おまえさんは
 目の前にある井戸さえ
 見えないくせに、
 私の未来を
 占おうって言うのかい?
 まっぴらごめんだね!」

あまり先を
見過ぎてはいけない。
さもないと、
目前の一歩を
踏みそこなうことになる。
呂祖は、
成果はおのずから
やって来ると言う。
成果のことは
放っておきなさい。

この<存在>は
実に気前がよい。

報われないものなど
何ひとつない。

これがインドの
カルマの哲学のすべてだ―
何事にも善い報いか
悪い報いが
必ずついてくる。
間違ったことをすれば、
悪い報いが
影のようについてくる。
正しいことをすれば、
必ず善い報いがやって来る。

報いの善し悪しを
気にかける必要はない。
少しも考える必要はない。
あなたの意識の一片すら
それにかかずらう必要はない。
それらはやって来る―
ひとりでにやって来る。

あなたは道を歩きながら、
影がついてきているか
どうかを
確かめるために
何度も何度も
振り返るだろうか?
何度も何度も振り返り、
影がついてきているかどうか
確かめている人がいたら、
あなたは彼は狂っていると
思うだろう。

影はついてくる。
必ずついてくる。
だから、
あなたの働きかけが
正しい方向を向き、
全身全霊で、
正しい努力をもって
行なわれていれば、
成果はひとりでにやって来る。


Osho - The Secret Of Secrets