saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…「成果は ひとりでにやってくる---」OSHO

(友人のFB 投稿記事です)
講話/抜粋

成果は副産物だ。
成果のことは
考えなくてもいい。
それについて考えると、
それを
得られなくなる―
それが条件だ。
成果のことを
考えてはならない。
成果のことを
考えはじめたら、
あなたは
分裂してしまうからだ。

そうなったら
修行は
中途半端なものになり、
実質のある精神(マインド)は
未来に飛んでゆく―
「どうやって成果をあげよう」
と。
あなたは
すでに成功した自分の姿を、
ブッダになった自分の姿を
夢見はじめている―
どれほどの美が、
どれほどの恵みが、
どれほどの祝福が
あなたのものになるかを。

精神が
貪欲(どんよく)さの、
野心の、
エゴのゲームを
演じはじめている。
けっして
成果のことを
考えてはならない。
成果はおのずと生まれる
副産物だ。

本当に誠実に
自分自身に
働きかけていたら、
影があなたに
つきそうように、
成果はおのずと
ついてくる。
成果をあげることを
目的にしてはならない。
呂祖が
「成否のことは
 思い煩わず、
 静かに黙々と」
 働きかけなさい」
と言うのはそのためだ。

そして、
いいかね、
成果のことばかり
考えているということは、
失敗の恐れも
念頭から離れない
ということだ。
それらはともに
連れそっている。
それらは
ひとつの包みに
入っている。
成功と失敗は
切り離すことができない。

成果のことが
頭にあるかぎり、
どこか奥深いところに
恐怖もある。
あなたがそれを
なし遂げられるかどうか
誰にもわからない。
あなたは
失敗するかもしれない。

成果を思い浮かべると
未来に連れ去られ、
貪欲さというゲーム、
自我の投影、
野望が湧き起こる。
そして
恐怖もまた
あなたに動揺を与え、
身震いさせる―
あなたは
失敗するかもしれない。
しくじる恐れがあるために、
あなたはたじろぐ。

このたじろぎ、
この欲望、
この野心を抱えながら、
静かに
働きかけることなど
できない。
その実践は
混乱したものになる。
ここで
働きかけていながら、
目は向こうを見ている。
この道を歩きながら、
目はどこか
空の彼方を見つめている。

星の研究をしていた
ギリシャ
占星術師のことを
聞いたことがある。
ある満天の星空の夜に、
彼は井戸に落ちた。
星を見ながら
歩きまわっていたからだ―
星に夢中になるあまり、
彼は自分が
どこにいるのか
忘れてしまい、
どんどん
井戸に近づいていって、
とうとう落ちてしまった。

近所に住んでいた老女が
物音を聞いて駆けつけた。
彼女は井戸をのぞき込み、
縄をもってくると、
偉大な占星術師を
引きあげた。
占星術師は
大いに感謝した。
彼は老女に言った。
「ご存じでは
 ないでしょうが、
 私は国王から
 特別に任命された
 王宮の占星術師です。
 料金は安くありません―
 大金もちだけが
 未来を占うだけの料金を
 払えるのです。
 でも、
 あなたは
 私の命の恩人です。
 明日どうぞ
 私のもとにおいでください。
 あなたの手相を読み、
 出世図を調べ、
 星占いをしてあげましょう。
 そうすれば、
 あなたの未来が
 何から何まで
 はっきりとわかりますよ」

老女は笑いだして、
こう言った。
「そんなことは
 すべて忘れちまいな。
 おまえさんは
 目の前にある井戸さえ
 見えないくせに、
 私の未来を
 占おうって言うのかい?
 まっぴらごめんだね!」

あまり先を
見過ぎてはいけない。
さもないと、
目前の一歩を
踏みそこなうことになる。
呂祖は、
成果はおのずから
やって来ると言う。
成果のことは
放っておきなさい。

この<存在>は
実に気前がよい。

報われないものなど
何ひとつない。

これがインドの
カルマの哲学のすべてだ―
何事にも善い報いか
悪い報いが
必ずついてくる。
間違ったことをすれば、
悪い報いが
影のようについてくる。
正しいことをすれば、
必ず善い報いがやって来る。

報いの善し悪しを
気にかける必要はない。
少しも考える必要はない。
あなたの意識の一片すら
それにかかずらう必要はない。
それらはやって来る―
ひとりでにやって来る。

あなたは道を歩きながら、
影がついてきているか
どうかを
確かめるために
何度も何度も
振り返るだろうか?
何度も何度も振り返り、
影がついてきているかどうか
確かめている人がいたら、
あなたは彼は狂っていると
思うだろう。

影はついてくる。
必ずついてくる。
だから、
あなたの働きかけが
正しい方向を向き、
全身全霊で、
正しい努力をもって
行なわれていれば、
成果はひとりでにやって来る。


Osho - The Secret Of Secrets

OSHO 講話の抜粋です。

(友人のFB より転載…)

最初に覚えておくことはこうだ。私が観照しなさいと言うとき、始めのうちあなたが観照するのは、身体や、思考だ……層また層、それをひたすら観照する。そして最後に、あなたはただ純粋な鏡を見つける----観照それ自体だ。それを純粋な鏡と呼ぶのも、観照しているものが何もないからだ。この「無」こそ、あなたの本性だ。
この無からすべてが生じ、そしてこの無へとすべてが溶けて入る。そして無になる覚悟があるなら----生きながらでも----あなたの生には、平安と静寂と、優雅の香りがただよう。
 
世の教育システム、一般通念はこぞって、あなたに対し、野心的になるよう、何者かになるよう強制する。でも何者かになることは、静かなプールに不安の小波を作ることだ。野心が大きければ、不安の波も大きくなる。欲望のせいで狂気にさえもなりかねない。何者かになろうと試みることは、不可能を試みることだ。なぜなら、あなたはもともと何者でもないからだ。

人はみな無であるけれども、その無に関する禅の見解は、ほかに類を見ないものだ。禅は何の野心も教えないし、ほかの何者かになれとも教えない。禅がひたすらあなたに示しているのはこうだ----自分の存在の一番深いところで、あなたは今も無だ。あなたは今も原初の純粋さを担い、それは「私」という観念によってさえも、汚染されていない。
だから観照しているときに、あなたは「私は無を体験した」と言うけれども、無を体験したとすれば、あなたは存在しないはずだ。無を体験するとは、あなたがいなくなって、無があるということだ----水面に波が現れては消えるようなものだ。

無を観照するのはあなたではない。あなたはまた小さな「私」を創り出しているが、その中には野心の世界が丸ごと入っている。無を体験するとは、あなたがいないということにほかならない。そして、途方もない歓喜がやってくる。なぜなら、野心や欲望や緊張にかかわっていたエネルギーがすっかり解き放たれ、踊りになり、至福になり、静寂になり、途方もない洞察になるからだ。しかし、それはいかなる「私」とも関係ない----根っこのない純粋な白雲で、自由の中に浮かび、理由もなければ方向もない。 <存在>の全体がその家となる。それはもはや、自らを分かつことがない。この非分割こそ仏性の究極な開花だ。自分がいないと知ることは、もっとも偉大な知だ。

質問の中であなたは、この全てを知覚する者は「誰もいない」のか尋ねている。もしこの「誰もいない」が、何かを知覚するとしたら、それはまだ「誰もいない」になっていない。もし何も残っていなかったら、知覚する者もおらず、すべては<存在>の中に溶け去る。

禅は世界で唯一、<存在>に即した宗教だ。すべての宗教はあなたの欲望を糧としている----分離したい、個々別々でいたい、特別になりたい、自己を実現したい、聖者になりたい……。こうしたすべては、臆病な病気だ。

禅とは勇敢なステップだ。
勇敢さでそれに勝るものはない。
無と静寂への量子的飛躍だ。

「誰が静かなのか」と聞くようであれば、あなたは静かではない。「誰がこのすべてを知覚し、観照しているのか」と聞くようであれば、あなたはまだ、私が示している無には至っていない。
そして、これはちょっと考えれば分かることだが、存在することでいったい自分が何を得たか----災難だ。禅が示してくれるのは、非存在の道、災難のすべてから抜け出す道、静寂の道だ。
誰もいなくなったとき、瞑想はその開花に至る。この「誰でもないこと」の花、無の花こそ<存在>の高処の究極的な表現だ。そうでなければ、あなたはいつまでも小さな誰かのまま、閉じ込められている。どうして全体にならないのか。大海に落ちることが可能であるのに、なぜいつまでも雫のままで、いろんな種類の死を恐れ、陽光の中に蒸発するのを恐れているのか。
ちょっと大海に飛び込んで、消え去ればいい。大海そのものになればいい。これは同じことを言い換えたまでだ。「無になれ」というのは、「すべてになれ」ということだ。

<存在>の中に消え失せる。するとあなたは花と咲き、鳥といっしょに空を飛び、雲になり、大海になり、川となる。けっして、「私」を伴った何か特別な人になるのではない。「私」こそが問題だ、唯一の問題だ----そしてまわりにたくさんの問題を創り出す。

そもそも禅の体験とは、無‐私、無‐自己の状態に入っていく体験だ。そうすると問題もなくなる。尋ねる者もいなければ、答える者もいない。


OSHO:禅宣言-自らの解放 #6

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(OSHO 講話、抜粋---)

内省を
どこまで押し進めても
何も得られない。

だから、
内省を
どこまでも押し進めようと
しないこと。

フロイト派の精神分析
まさに
それを行なっている。
思考を自由に
連想させてゆく。
ひとつの思考がやって来たら、
次の思考が湧いてくるのを待つ。
それが
どんどん鎖のように
つづいてゆく……
精神分析
諸派がやっているのは
まさにそれだ―
あなたは
過去にもどってゆき始める。

ひとつの思考が
別の思考を呼び覚まし、
それが延々と
果てしなくつづいてゆく。
それにはきりがない。
それに
入り込んでしまったら、
あなたは
まったく何の益にもならない
永遠の旅に出ることになる。
心はそれをやりかねないから、
気をつけなければならない。

内省を
どこまで押し進めても
何も得られない。
この想念が
どこから生まれてきたかを
見ることで よしとし、
その先を
究めようとしてはならない。
マインドを探し求めても、
とらえることは
できないからだ。

意識によって
意識を超えることはできない。
だから、
いたずらに
無益なことは試みないこと。
そうしないと
次から次へと現れる思考に
振りまわされて、
自分がそこで
何をしようとしていたのか
すっかり忘れてしまう。
鼻の頭は消え、
第三の目は忘れられ、
光の循環は
遥か彼方に遠ざかってしまう。

だから
思考をつなげないよう、
ひとつの思考だけにする。
連想をはじめてはいけない。

ひとつの思考が現れてくる―
それがどこにあり、
どこから現れて、
いつ消えてゆくのかを
見守りなさい。
見守っていると、
それは消えてしまう。
これを
心にとめておきなさい。

仏教徒
思考が現れると、
「思考、思考」
と言って
油断なく目を見張る。
それはちょうど
家に泥棒が入ったら、
「泥棒だ!泥棒だ!」
と叫んで、
みんなの注意を
呼び覚ますようなものだ。

ただ
「思考、思考」
と言うだけで、
あなたは
油断なく目を見張り、
注意深くなる。
泥棒が入った。
さあ、
泥棒が何をしているか
見守るがいい。

あなたが気づくと、
思考はただちに止まる。

思考はあなたを見て、
そして少し驚く。
あなたはこれまで一度も
そんなことを
したことがなかったからだ。
思考は
あまり
歓迎されていないのを
感じる。
「こいつは
 どうしてしまったんだろう?
 いつも
 よくもてなしてくれたのに、
 『泥棒!泥棒!思考だ、思考だ』
 などと言っている。
 こいつは
 どうしちまったんだろう?」
思考は当惑し、
何が起こっているのか
理解することができない。
「こいつは
 おかしくなりはじめている
 のだろうか。
 鼻の頭を見ながら
 『思考、思考』と
 くり返しているぞ」

気づきそのものが
思考の動きを一瞬止める。
思考はその場に釘づけになる。

そして
見守りつづけなさい。
非難してはいけない。
放り出そうとしてはいけない。
闘ってはいけない。
非難しても
正当化しても、
思考と同一化することに
なるからだ。

ただそこにあって、
油断なく目を見張り、
思考を見つめなさい。
そうすれば
思考は消えはじめる。
現れたときと同じように
消えてゆく。
それは
空想から生まれ、
空想のなかに消えてゆく。

思考が消えれば、
観想にもどればいい。
思考には根などないのだから、
その元をたどる必要はない。
さもなければ
大宇宙の源そのものまで
たどらなければならなくなる。

精神分析
きりがないのはそのためだ。
それはけっして終わらない。
精神分析を完全に終えた者など
この世にひとりもいない。
精神分析
完全に終えることなど
ありえない。
一年、二年、三年、四年、
五年、六年、七年と―
精神分析
七年間通っている人もいる。

あなたはどう思うかね?
彼らが止めるのは
精神分析
終了したからだと思うかね?
いいや、
彼らは精神分析にうんざりし、
精神分析医は彼らに
うんざりしてしまったからだ。
ものごとは
いつか決着を
つけなければならない。
終止符を
打たなければならない。
いつまで
つづけられるだろう?

そして、
精神分析
完了したことは一度もない―
それはありえない。
それは
むいてもむいても
なくならない
たまねぎのようなものだ。
その皮をえんえんと
剥きつづけることはできるが、
どこまでいってもきりがない。

だがそれは助けになる。
それは自分自身に、
そして社会に
もっと適応するのを
助けてくれる。
それは
あなたを
変容させるのではなく、
正常な異常者にするだけだ。
それは
あなたが住んでいる
神経症的な社会に
あなたが適応するのを
助けてくれる。

それはあなたを、
変容を遂げた
輝かしい存在にするのではなく、
生がもたらすものは
善悪を問わずことごとく受け入れ、
誰もがしているように
身をひきずりながら歩いてゆく
ふつうの人間にしてくれる。
それは嘆きながら
生を受け入れることを
教えてくれる。
それは
本当の受容ではない。

真の受容は
つねに祝祭をもたらすからだ。


Osho - The Secret Of Secrets