saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…虚空---友人のFB 投稿記事です。

(OSHO 講話/抜粋・・・)

瞑想中、
少しの間。
数秒の間。 
思考作用の停止が
感じられる....
そんな隙間が現れる。 
しかし、
思考作用の停止を
感じるのもまた、
思考作用だ……。
非常に微妙な
思考作用だ。

つまり、
あなたは内側で
「思考作用は停止した」
と語っている。
しかし、
それはいったい何か? 
それは新たに始まった
二次的な思考作用だ。

あるいはまた
「これが空虚だ」
とか、
「いま何かが
 起ころうとしている」
などと語る。
それはいったい何か? 
それもまた
新たな思考作用だ。

たとえそれが起こっても、
思考の犠牲に
なってはいけない。
たとえ
沈黙が
降りて来るのを感じても、
それを
言語化してはいけない。
言語化したら、
沈黙を破壊してしまう。

だから、
待つのだ。 
何 か を待つのではなく、 
ただ待つ。

何もしない
「これは空虚だ」
などと言わない。 
そう言うやいなや、
沈黙は破壊されてしまう。

ただ、
それに目を向け、
観つめ、
面と向かい、
そして、
ただ待つ。

言語化はしない。
どうして
急ぐ必要があるだろう?
言語化すると、
マインドは再び
別の経路から入り込み、
あなたを欺く。
マインドの
この策略には
気をつけることだ。

最初のうち、
それはどうしても起こる。 
だから、
それが起こったら....
ただ待つことだ。 
罠にはまってはいけない....
何も言わずに、
沈黙を保つ。

そうすれば
あなたは、
その中に入り込み....
それは
一時的なものではなくなる。

いったん、
真の空虚を知ったら、
それは決して無くならない。
真は決して無くならない。 
それは真の本質だ。

いったん
内側の財宝を知ったら、
いったん
自身の最深の核に触れたら、
たとえ
外側の行動に向かおうとも....
好きな事をしようとも....
普通の現世的生活を
送ろうとも....
その空虚は
いつもあなたと一緒だ。

それを
忘れることは不可能だ。
それは内側で続いている....
その音楽が聴こえてくる。

何をしようと、
その行為は
表層上にとどまり、
内側で
あなたは空虚のままだ。

内側で
空虚のままとどまり、
行為を
表層上にとどめられたら....
すること全ては、
神的なものとなる。 
行為は全て、
神的な質を帯びる。

なぜなら、
それは、
あなたに
由来するものでは
ないからだ。
それは、
根源的な空虚から、
根源的な無から
直接やってくる。

何かを語っても、
その言葉は
あなたのものではない。


Osho - The Secret of Secrets

友人が FBに投稿している OSHO の講話、抜粋です。

(講話/抜粋)

このことは
あなた方全員が
覚えておくべき
最も基本的なことがら
のひとつだ。
宗教は
どのような系統立った教義もなく、
信仰体系もなく、
ドグマもなく、
神学もないときにのみ
生きている。
 
ただこの静けさと
そよ風に吹かれて
楽しく踊っている木々があるとき、
あなたのハートの中で何かが育つ。
それは
あなた自身のものであり、
どのような経典から
やって来るものでもない。
知識ではないがゆえに、
それを
あなたに与えることは
誰にもできない。
 
それが、
一方にある宗教すべてと、
もう一方にある
禅との間の
最も大きな違いだ。
禅以外の宗教は
すべて死んでいる。
それは化石化した神学、
哲学体系、
教義になりはてている。
だがそれは
木々たちの言語を
忘れてしまった。
その中では
木々たちすらもが聴かれ、
理解されうるような静けさを
忘れてしまった。
生きとし生けるものたちの
ハートにとって、
自然であり、
自発的であってしかるべき喜びを、
それは忘れてしまった。 
体験が、
説明や表現にかわる瞬間、
それはただちに
息づくことをやめる。
それは死んでいる。
そして
世界中で人びとは
死んだ教義を持ち歩いている。

私は禅を
「生きている唯一の宗教」と呼ぶ。
なぜなら
禅は宗教ではなく、
宗教性にすぎないからだ。
それはドグマを持たず、
いかなる創始者にも依存していない。
それは過去を持たず、
実のところ、
あなたに教えるべきことなど
何ひとつない。
それは
人類の歴史全体の中で起こった
最も風変わりなことだ。
最も風変わりな、
というのも、
それは
空(くう)の中で楽しみ、
無(む)の中で花開くからだ。
それは無垢の中で、
「不知」の中で達成される。
それは
世俗的なものと
神聖なものとを区別しない。
禅にとっては、
あることすべてが神聖だ。

生は、
どんな姿かたちをとっていようと
神聖だ。 
どこであろうと、
生命を宿し、
息吹きに満ちた何かがあるならば、
それは神聖だ。
だが
ボーディダルマが語ったことは
非の打ちどころがなく完璧だ。
それに
つけ足せるようなものは
何もないし、
それから
削除できるようなものも
何もない。
ゴータマ・ブッダでさえ、
ボーディダルマの開花には
驚かされただろう。

彼は言っている。
すべては空っぽだ。
そして虚空の中に 入っていかないかぎり、
あなたは、
生とその神秘について
何も理解しないだろう。
そして神聖なものなどない。
だから聖者になること、
自分自身をきたえること、
あれこれ実践することに
わずらわされてはいけない。

ただ
自分自身の実存 (ビーイング)に
入っていきなさい。
ハートの沈黙の中では
何ひとつ欠けてはいない。
聖者はふりをしているだけだ。
真実はすでにそこにあるのだから。
それはいかなる実践も、
いかなる神聖さも必要としない。
必要なのは
目覚めていることだけだ。
ただ目を覚ましなさい。
そして
あなたの内側に誰がいるのか、
ただ見てごらん。
それは、
偉大な知識が
わかるようになるという
意味ではない。
それは、
自分が誰であるかが
わかるようになるという
意味ではない。
それはただ、
汚れなき無垢さがあるということが
わかってくるという意味だ。
それは
あなたの本質的な実存(ビーイング)だ。
そして
その中には聖なるものなどない。

美しい薔薇はみごとだが、
あなたは神々しい薔薇と
罪にまみれた薔薇があると思うかね? 
人びとを支配してきた聖職者を除けば、
罪人と聖人という区別自体が
〈存在〉にはない。
すべてが美しく、
とてつもなく優美だ。
だが
神聖なものなどない。
そしてあなたが
みずからの内側に
入ってゆくときには、
〈私〉という観念すら
外に置き去らなければならない。
〈私〉という観念を
置き去ることなしには、
自分自身の内側に
入ってゆくことはできない。
この〈私〉こそが
あなたの自我(エゴ)だ。
それは障壁であって、
橋ではない。

それゆえ、
「私は知らない」と言うかわりに--
その方がずっと
文法にかなっていたが……。
だが
ボーディダルマのような人間は
文法など気にしない--
私が文法を気にすると思うかね? 
ボーディダルマはただ単に、
「識別がない」と言い、
それですべてを語ってしまった。
彼は何も言い残さなかった。
ボーディダルマ
比類を絶しているのは、
彼がほかの何をも気にかけず、
ほかの何をも
考慮しないところにある。
関心を払わないということだ。

ほかにはただひとり、
ゲオルギー・グルジェフならば
彼に同意しただろう。
偉大な師(マスター)たちの
歴史を通じて、
ゲオルギー・グルジェフだけが
彼の弟子に教えたものだ--
考慮してはいけない、と。
妥協してはいけない。
真実をあるがままに
あらしめなさい。
それをよりよく
見せることはできない。
それを彩ることはできない。
それに色を少々加えたり、
喜びを少々加えたり、
いま少し手を加えて
描き足したりすることはできない。
あなたは何もできない。

それを知るならば、
あなたの眼は
からっぽの空(そら)のように
なるだろう。 
あなたの手は
こぶしのようにはならず、
ものをにぎりしめることなく
空っぽで、 
内側には誰もおらず 
純粋な〈無〉であることを
示している。 
だが
この〈無〉は
生きている。
この〈無〉には
ハートがある。
この〈無〉は
何千もの花や虹となって咲き、
孔雀となって踊り、
鳥となって歌う。
この〈無〉は
大海となって吠える。
この〈無〉は
瞑想者となって沈黙する。

この〈無〉は--
いいかね--
あなた方が
普通に理解している
〈無〉を意味するのではない。
ことばを
ふたつに分けた方がいい。
ボーディダルマが無というとき、
彼は単純に、
無一物を意味している。
小さなハイフンをつけるだけで、
ボーディダルマ
よりわかりやすくなる。
私にはそれ以上はできない--
ただの小さなハイフンで、<無>は無一物になる。
あなた方は生きた
いのちであって、
ものではない。

空(くう)には
私たちの心が抱いている
否定的な含みはない。
私があなた方に
完全にからっぽの部屋を
見せるなら、
それについて
ふた通りの言い方がある。
あなたは部屋は
からっぽだとも言えるし、
部屋は空間に満ちている、
とも言える。
「部屋」〈room〉ということばは、
まさに空間を意味する。
家具を持ち込めば持ち込むほど、
部屋の空間は減ってゆく。
部屋中をがらくたで
埋めつくすこともできる。
すると部屋は消えてしまう。
それはそこにあり、
かつ、
そこにない。
それを放りだすことはできない。
だが、
あなたはそれを
家具の背後に、
冷蔵庫の背後に、
テレビの背後に
隠すことができる。
それらすべてを取り出すと……
何が残る? 
広々としていること、
虚空、
肯定的な意味合いでなら、
純粋なる空間、
だ。

だから
覚えておきなさい。
ボーディダルマ
空っぽと言うときには、
彼はあなた方の
空虚さの観念を
意味しているのではない。
彼の空(くう)は
とてつもなく満ちている。
彼の空(くう)は
とてつもなく肯定的だ。
彼の〈無〉は
単純に無一物だ。
彼は、
知ることを否定することで、
単純に、
無垢さを主張している。
ふたつの小さな声明の中で、
宗教性のまさに核心、
ハートを明かしたのは
驚嘆すべきことだ。  


Osho - Live Zen

OSHO 講話の抜粋記事です。

(FBに投稿された 抜粋/講話---)

光は
肉体のなかだけに
あるのではなく、
肉体の外だけに
あるのでもない。

ひとたび
内なる光を見たら、
あなたは
光は内側だけに
あるのではなく、
外側にもあることに
気づくようになる。
光は、
あなたのなかだけに
封じられているものではない。

いいかね、
暗闇は
個的なものだが、
光は
あまねく存在している。
死は
個的なものだが、
生は
あまねく存在している。
惨めさは
個的なものだが、
至福は
あまねく存在している。

惨めさが
あるためには、
あなたが
存在していなければならない―
孤立したあなたが
存在していなければならない。

そして
至福が訪れるためには、
あなたは
全体の一部になり、
全体と調和しなければならない。

光は
肉体のなかだけに
あるのではなく、
肉体の外だけに
あるのでもない。
山河大地は
太陽と月に照らされるが、
それはすべてこの光である。

ひとたび
内側に光を見たら、
光が至るところに―
月のなかに、
太陽のなかに―
あることに気づくだろう……。
光はすべて同じだ―
内なる光であろうが、
外側の光であろうが
変わりはない。

それゆえに
光はたんに
肉体のなかにだけ
あるのではない。
理解と明晰さ、
知覚と光明、
そして
(精神の)すべての働きは
この光に他ならない。

あなたが
月に見る光と、
内側にある
第三の目に見る光は
同じものだ。
それが
同じ光であることに気づけば、
内界と外界の違いは
もはやなくなってしまう。
内は外であり、
外は内だ。

それゆえに、
禅師は
「輪廻こそがニルヴァーナ」―
世間が、
この世間そのものが悟りだ、
と言う。
この身体がそのままブッダであり、
この世がそのまま楽園である、
と。

仏陀が光明を得たとき、
「不思議な、
 信じがたいようなことだが、
 私が光明を得たとたんに、
 全世界がともに光明を得た」
と言ったのはそのためだ。

何世紀にもわたり、
仏教の瞑想者たちは
それに瞑想してきた。
仏陀は何を
 言おうとしているのだろう?
 仏陀は何が
 言いたかったのだろう?
 『私が光明を得たとたん、
  全世界が光明を得た』
 とは?
 どうしてそんなことがありえるだろう?
 まだ光明を得ていない人は
 無数にいるのだから。
 仏陀は何を伝えようと
 したのだろう?」
瞑想者自身、
「少なくともこの私は
 光明を得てはいないのだから、
 全存在が
 光明を得ているはずがないではないか」
と考える。

仏陀にとっては
全存在が光明を得ている。
彼は、
内と外を分けているのが
エゴ―
自我という薄いカーテン―
にすぎないことに
気づいたからだ。
そのカーテンが落ちてしまえば、
内なるものもなく、
外なるものもない。

それゆえに、
仏陀は「私は光明を得た」
と言うことができない。
彼は
「生きとし生ける
 すべてのものが光明を得た」
と言う。
あらゆる樹々、
あらゆる川、
あらゆる山々、
あらゆる人々、
あらゆる動物たち、
あらゆる星々―
いっさいのものが光明を得た。

もはや彼には
分離したアイデンティティーが
ないからだ。
彼は、
あなたは光明を得ていると
言おうとしているのではない。
彼はたんに
こう言っているだけだ。

「『この私が光明を得た』
 とは言えない。
 ただ『私は束縛されていた』と
 言うことしかできない。
 ただ『私は無知だった』と
 言うことしかできない。
 ただ『私は苦しんでいた』と
 言うことしかできない。
 だが、
 今やその私がいないのだ」

<存在>は至福に満ちている。
<存在>は光に満ちている。
そして
内なる光と外なる光は同じものだ―
内なるものもなければ、
外なるものもない。
光が第三の目―ひとつの目、
唯一の目に入り込めば、
あらゆる区別が消える。
区別という区別がみな消え失せる。
虹は再び白一色の光線になる。

つい先日、
こういう質問があった。
「和尚、
 あなた自身は白を着ておられるのに、
 どうして私たちには
 オレンジ色の衣服を
 着ろとおっしゃるのですか?」

それはただの象徴であり、
あなたがたは複数の色が消えて、
何の区別もない
白い光線だけが残る地点に
到達しなければならないということを
示しているにすぎない。


Osho - The Secret Of Secrets 

…FBで、友人が投稿している記事をシェアします。

(OSHO 講話の抜粋です---)

最初に
エゴが消え失せ、 
その後に
エゴの不在も消え失せる。

そうして初めて
真に空虚になる。
真に空虚だということは、
真に満たされていることだ。

エゴの不在によって
生み出された、 
この内的空間こそが
<神>だ。
<神>とは
どこか外から
やって来るものではない。

あなたはすでに神だ。

ところが、
あなたはエゴで
充たされているから、
神を認識することも、
観ることも、
触ることもできない。

エゴという
皮膜のような障害が
邪魔している。
エゴが落ちるとき、
その障害は落ちる。
もはや膜は無い。

別に何かが
到来するわけではない。
到来すべきものは、
すでに存在している。 
何か新しいものが、
到来するわけではない。

可能なものは、
全て
すでにそこに在り、
現実となっている。

だから
問題なのは、
達成することではなく、
発見することだ。
財宝はそこに在る。
ただ覆われている....
その覆いを
取り除くことだ。

仏陀が悟りを開いたとき、
何度もこう尋ねられた。
「あなたは何を得たのか。
 何を達成したのか?」
仏陀はこう言ったそうだ。

「何も達成していない。
 むしろその逆に、
 自己を失った。
 達成したものは、
 すでにそこに在った。
 だから
 私がそれを達成したとは
 言えない。
 かつては
 それに気づいていなかったが、
 今は
 それに気づいている。
 だから
 私がそれを
 達成したわけではない。
 むしろその逆に、
 かつて
 それを知らないでいたことが、
 不思議に思える。
 それはすぐそばに在った。
 振り返りさえすればよかった。」

神性とは
未来ではない。
神性とは現在だ。
それは、
今ここに在る。

今この瞬間、
あなたはそれだ。
でも
気づいていない。 
正しい方向を観ていない。 
あるいは、
それに同調していない。
それだけだ。

・・・

空虚とは、
あなたの最奥の中心だ。 
一切の行為は表層上にある。
最奥の中心は、
全くの零だ。 
一切の現れは表層上のものだ。
あなたの存在の最深の核は、
現れることのない空虚だ。

仏陀
それに名前を与えた、
シュニャータだ。
その意味は
「無」あるいは「空(クウ)」だ。
これこそ
あなたの本性。
これこそ
あなたの存在だ。

そして、
この無から一切が現れ、
この無へと一切は還る。

この空虚は源泉だ。
この空虚を充たそうと
考えてはいけない。
この空虚を
充たそうと考えると、
なお一層の
エゴを生み出してしまう。 
エゴとは、
この空虚を
充たそうとする努力だ。


Osho - The Secret Of Secrets

…FBに友人がシェアしている OSHOの抜粋講話です。

 
生における
最大の神秘は
生そのものではなくて、
死だ。
死は生の絶頂であり、
生の究極の開花だ。
死において、
生のすべての総計が出され、
死において
あなたは到着する。
生は
死に向かう巡礼の旅だ。
生まれ落ちたその日から、
死が近づきはじめている。
誕生の瞬間から、
死はあなたのもとに
近づきはじめ、
あなたは
死に向かって進んでゆく。

人間のマインドに起こった
最大の悲劇は、
彼が死に対立するように
なったことだ。
死に対立することで、
あなたは最大の神秘を
取り逃がしてしまう。
死に対立することは
また生そのものを
取り逃がすことでもある。
なぜなら、
それらは互いに深く
かかわりあっているからだ。
それらは別々のものではない。
生は成長であり、
死はその開花だ。
旅と目的地は
別々のものではない。
旅は
目的地において完結する。

死は
高まりゆくものの頂点として
受けとめられなければならない。
それによって
異なった視野が開けてくる。
あなたは
死を避けないようになり、
死に対立しなくなる。
その神秘に身震いし、
それを楽しむようになり、
それについて黙想し、
瞑想するようになる。

死は
さまざまな形でやってくる。
あなたが死ぬことは、
死の多くの形の
ひとつにすぎない。
あなたの
母親が死ぬとき、
それは
あなたの死でもある。
母親は
あなたに深くかかわり、
あなたの存在の
大きな部分を
占めていたからだ。
その母親が死ぬ。
あなたのなかの
その部分も死ぬ。
あなたの父親、
兄弟、姉妹、友人が死ぬ。
敵が死んだときですら、
あなたのなかの
何かが死んでしまう。
なぜなら、
敵もあなたの一部と
化していたからだ。
あなたは何かを失って、
何かが欠けてしまい、
もはや二度と同じではない。

だから、
死は
あなたが死ぬときだけに
訪れるのではない。
死は多くの道を通って
やってくる。
死は常にやってきている。
子どもの幼さが消えて、
青年になるとき、
あなたには見えないだろうか?
そこに死が起こる。
子どもの日々が終わり、
子供の日々が死んで、
その扉が閉ざされる。
後戻りすることはできないし、
取り戻すこともできない。
それは永久に去ってしまう。
子どもとしてのあなたは死んだ。
いつの日か
青春は老年へと移り変わる。
またそこでも死が起こる。
数えきれないほどの死がある。

実際のところ、
深く、貫くように見るなら、
自分が刻一刻と
死んでゆくのを
見ることができる。
なぜなら、
あなたは刻々と
変化しているからだ。
何かがあなたの存在から
抜け落ちてゆき、
何かがあなたの存在の中に
入ってくる。
一瞬一瞬が誕生と死だ。
あなたはこの二つの堤、
誕生と死のあいだを
流れている。
あなたの生の川は
誕生と死があってはじめて
流れることができる。
しかも
それは刻々と起こっている。

死は
きわめて静かに起こる。
その足音を
聞くことはできないし、
それはどんな音もたてない。
それは起こり続けている。
あまりにも
絶え間なく起こるので、
あなたはそれを
見ようとしない。
明白すぎるからだ。
明白なものは忘れられ、
生の一部になってしまう。
あなたは
突然起こることにしか
注意を払わない。
不意のものごとにしか
注意を払わない。
そして
死は絶え間ない。
だからあなたは
それに
いかなる注意も払わない。

・・・

どこかで誰かが死ぬと、
死は必ず
あなたの扉をもノックする。
人間だけではない。
犬が死に、
カラスが死に、
木の葉が色あせて
木から落ちる。
あなたは死んでゆく。
なぜなら、
私たちは
互いと入り交じりあい、
互いの一部となり、
互いの一員と
なっているからだ。
人間は孤島ではない。
私たちはみな
ある種の
結びつきのなかにある。
そして死は世界中で、
刻一刻、
無数の形で起こっている。
<存在>は死を通して生き、
死を通して自らを更新する。
死は最大の神秘だ。
生よりさらに神秘的だ。
なぜなら、
生は死へと向かう
巡礼の旅にほかならないからだ。


Osho - The Revolution