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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…FBに 友人が投稿している(OSHO 講話/抜粋)記事です

 
生においては、
名詞は偽りであり、
ただ動詞だけが真実だ。
私たちは言語のなかに
名詞をつくりだした。
これらの名詞は
生に関して
ひじょうに誤った印象を与える。
それは正しくない。

いつか将来、
言語が
もっと実存的なものに
なるときがくれば、
名詞は消えて
動詞に置き換えられるだろう....
あらゆる名詞が。

川というものはなく、
川として流れゆくであり、
樹というものはなく、
樹としてそびえゆくだ。

なぜなら、
一瞬といえども
樹は静止していないからだ。
それはけっして
存在(イズネス)の状態にはない。
それはつねに
生成(ビカミング)し、
流れ、どこかへ向かっている。

<存在>は流動的であり、
ゆえに水、
「水中」がメタファーになる。

目撃者に気つけば、
第三のものが可能になる。

あなたは流れることの
美しさに気つくだろう。

安定を渇望したり、
現状がいつまでもつづくことを
願ったりしなくなる。

あなたは川とともに流れはじめ、
<存在>という川の一部になる。
あなたは変化を楽しむようになる。

人々は変化を心底から恐れ、
変化に対して
大きな恐怖を抱いている。
ものごとがよい方向に
変わってゆくときでさえ、
恐れる。
彼らは新しいものを恐れる。

心(マインド)というものは
古いものには実に賢く振る舞えても、
新しいものに出会うと
必ず当惑するからだ。
心は新しいものを
再びイロハから
習わなければならない....
誰が習いたがるだろう?

心は世界をそのまま
停止させておきたい。

社会が法を遵守し、
古い型を守るのは
まさにこの心があるためだ。
世界中で数限りない人々が
因襲にとらわれている。
なぜだろう?
そこにはかなりの資本が
投下されているにちがいない。
これは投資だ....
誰も学びたくはないし、
誰も成長したくはないし、
誰も新しいものに
慣れ親しみたくはない。

人々はどこまでも
古い型を守りつづけようとする。
が、そうなると当然、
退屈してくる。
そこで彼らは
「どうして退屈なんだろう?
 どうすれば
 退屈せずにすむだろう?」
と言う。
彼らは自分たちで
退屈をつくりだしておきながら、
退屈をつくりだした
そのからくりを見ていない。

大勢の人が
私のもとにやって来て、
自分は退屈していると言う。
「どうすれば
 退屈から抜け出せるでしょう?」
と。

退屈が問題なのではない。
退屈は副産物だ。
問題の奥にあるのは、
新しいものを探求する
用意ができているか?
冒険に出る
用意ができているか?
ということだ。

冒険とは賭けることだ。
それはよくなるかもしれないし、
これまで知っていたよりも
さらに悪くなるかもしれない....
それは誰にもわからない。

それに関しては
ひとつも確実なことは言えない。

生で唯一確かなのは、
それが不確かなものである
ということだけだ。
人は不確かさより
他には何も
当てにすることができない。

新しいものは
人をひどく不安にさせる。
彼らは古いものにしがみつく。
世界に
因襲にとらわれた人々がいるのは
そのためだ....
彼らは無用な重荷になっている。
彼らのおかげで
世界はよどんでいる....
彼らは古い型を踏襲することに
こだわりつづけている。

例えば、
インドの歴史は
ほぼ五千年に達するが、
マヌがつくりあげた社会構造は
そのまま残っている。
それは当時は
良いものだったかもしれないし、
何らかの意義があったにちがいないが、
五千年が経ったというのに
インドにはいまだに不可触賎民がいる。
触れることすら許されない人々がいる。
彼らは人間ではない。

正統派を自認する者たちは
彼らの影にさえ触れない。
かつてはそうだった。
今でもいくつかの村では、
不可触賎民、スードラが
通りを歩くときには
「どうかわきによけてください。
 そちらに行きますよ」
と叫ばなければならない....
というのも、
カーストの高い誰かに
影が触れると
罪になってしまうからだ。

彼は叩かれ、
へたをすると打ち殺される!
今でもこの罪を着せられ
焼き殺される人々がいるが、
この愚劣な社会構造は
五千年も生き延びてきた。
これほど非人間的なのに!
これほど非民主主義的なのに!

インドでは民主主義が
成功しそうにないのはこのためだ。
ヒンドゥー教の精神そのものが
民主的ではない。
精神構造のすべて、
心理的な条件つけが
民主主義に反しているのに、
どうして民主的な国を
うまくつくりあげることができるだろう。
民主主義において最も大切な基本は、
万人が平等であるということだ。

誰かが誰かよりも価値において
まさるというわけではない....
ところがヒンドゥー教徒
それを受け容れることができない。
事実、スードラ、不可触賎民は
人間として認められていない。
彼は人間ではなく、
家畜扱いをされている。
女を人間と見なすことはできない。
女性もまた家畜扱いをされてきた。

さあ、この種の精神....
それがどうして
民主的になりえよう。
だから
民主主義の名のもとにあるのは
混沌以外の何ものでもない。
なぜなら、
民主主義の基盤が
存在していないからだ。
だが、
この国は五千年にわたり
この社会構造とともに存続してきて、
それを手放す用意ができていない。

この構造のどこに
美点があるのだろう?
美点などどこにもありはしない。
それはただただ醜く、おぞましく、
忌まわしく、
吐き気をもよおすほどだ!

人々はあまりにも長く
それと暮らしてきたので、
もう他のことは何も学びたくない....
ただそれだけのことだ。
彼らはそれとともに
生きてゆきたい。
彼らはそれがあると
安心することができる。
彼らはどんな変化も
毛嫌いしている。

いいかね、
この傾向は多かれ少なかれ
どんな人間のなかにもある。
あなたは変わりたくはない。
あなたは変化を恐れている。

なぜなら、
変化とともに
新たな挑戦が生まれるからだ。

そしてあなたは
新しい状況に対処できるかどうか
不安に思っている。
古いものならうまく扱えるし、
手際よくさばけるから、
古いものに
寄り添っているほうがましだ。
古いものは
意のままに操ることができる。

新しいものはどうなるかわからない。
思い通りになるかもしれないし、
思い通りにはならないかもしれない。

学ぶことができるのは
子どもたちだけだ。
子どもたちには
何も過去がないので、
しがみつくべき古いものが
いっさいないので、
いつでも喜々として
学ぶことができる。

大きくなればなるほど
学ぶことができなくなる。
十三歳位で、
人々は学ぶことをやめる。
それが彼らの精神年齢になる。

探求者であるなら、
あなたは絶えず
学びつづけなければならない。
生きることは学ぶことだ。
学ぶことはけっして終わらない。

死の瞬間においてすら、
探求者は学びつづける。
彼は死を学ぶ。

彼はいつでも
変わる用意ができている。

水は変化する要素を、
永遠の変化を、
流動的な現象を表している。

いつでも変化でき、
過去を忘れ、
過去を許すことができ、
瞬間とともに
進んでゆく用意のある者たちこそが
真の人間だ。

なぜなら、
彼らは冒険家だからだ。

彼らは生の美を、
生の祝福を知っている。

そして生は
その神秘をこのような人々に、
このような人々にだけ
明かしてくれる....
なぜなら、
彼らはそれに値するからだ、
みずからの手で
それを稼ぎ取ったからだ。

賭けることで、
彼らはそれを稼ぎ取った。
彼らには勇気がある。

水中にそよ風が吹く。

もしあなたが
水のような現象になり、
変化し、絶えず移り変わり、
動き、流れ、
けっして
過去や古いものにしがみつかず、
いつも新しいものを探し求め、
つねに新しいものを楽しんでいると……
「そよ風」が吹いてくる。

あなたは恩寵に包まれる。
あなたの実存は至福に包まれる。
そうなったら、
あなたの内側ではじめて
聖なるものが踊りだす……
「そよ風が吹く」とはそのことだ。

神はとてもやさしい。
神はけっしてあなたの扉を叩かない。
神の足音はけっして聞こえない。
訪れるときには、
神は音を立てずに、
ひっそりとやって来る。

あなたが
水のようになっていないかぎり、
神のそよ風が
あなたの上に
吹いてくることはない。
まず流動的になりなさい。

流動的でありつつけること....
これは
サニヤシンに対する
私のメッセージでもある。

そして、いいかね。
未来は
絶えず変化してゆく用意が
ある者たちのものになる。
なぜなら、
今や世界は
めまぐるしい速度で
変化しているので、
古いものに
しがみついている者たちは
大きな苦しみを
味わうことになるからだ。

彼らはこれまで
大きな苦しみを
味わったことがなかった。
むしろ逆に、
進んで変わろうとする者たちのほうが
ひどい苦しみをなめてきた。

これからは
状況が逆さになるだろう。
これからの時代は変化を愛し、
喜々として踊りながら
変わってゆこうとする者たち、
変化を祝う者たちのものになる。
そして、いつなんどき
変化の機会が訪れても、
彼らはそれを逃がさない。

未来は彼らとともに
あることになる。
歴史は大きな転換をとげ、
別の地平を進もうとしている。


Osho The Secret Of The Secrets

…FB で 友人が投稿している記事です。

( 講話 抜粋 )

その通りだ。
愉快なことではあるが、
誰かがそれを始めなければならない。
私たちは世界がこれほど深刻ではなく、
もっと感受性豊かになってほしい。
誠実であるのはもちろんだが、
けっして深刻ではなく――
私たちは世界に、
ユーモアの感覚は
宗教的な人間の
もっとも基本的な資質の
ひとつだということを学んでほしい。

もし笑うことができなかったら、
あなたは生の多くのことがらを見逃す、
多くの神秘を見逃す。
笑いは、
あなたを幼い無垢な子どもにする。
笑いは、
あなたと存在を結びつける――
とどろく大海を、
星たちと彼らの沈黙を、
あなたと結びつける。

笑いは、
あなたを世界の孤独な吟遊詩人、
知性の育った吟遊詩人にする。
とういうのも、
笑えるのは
知性のある人びとだけだからだ。
動物たちに
笑う余裕がないのはそのためだ――
彼らにはそれだけの知性がない。

試してみるといい――
バッファローに冗談を言って、
どうなるか見てごらん。

が、
尊敬されるには
まず深刻さこそが欠かせないものだ、
とつねに教えられてきたために、
誰もが深刻になってしまった。
彼らが深刻なのには、
なにか理由があるわけではない。
だが、
その深刻さが
今では彼らの第二の天性になっている。
彼らは、
深刻さは病気だということを
完全に忘れている――
深刻さとは、
ユーモアの感覚が
自分の中で死んでいることを
意味しているのだ、
ということを。

さもなければ、
生全体はまわり中、
愉快なことで満ちあふれている。
もしあなたにユーモアの感覚があったら、
悲しくなっている時間などないことに
驚くだろう――
あらゆる瞬間ごとに、
あらゆるところで、
なにかしら起こっている。

私の使命は確かに、
人類全体に笑いをもたらすことだ――。
人類は笑いを忘れてしまっている。
そして笑いを忘れたら、
あなたはいつも歌を忘れ、
愛を忘れ、
ダンスを忘れる――
笑いだけを忘れるというわけではないのだ。
笑いは、
いくつかの資質が
独自に組み合わされているものだ。
深刻さも
いくつかの資質が
独自に組み合わさっているように――。

笑いを忘れたら、
あなたは愛を忘れる。
悲しい顔をして、
女性に「愛してるよ」なんて
どうして言えるかね? 
少しは笑わなくてはいけない。
深刻な顔をしていては、
ちょっとしたことすら言えない。
人びとはすべてを
あまりにも深刻に取りすぎるから、
それが重荷になる。
もっと笑うことを学ぶがいい。
私にとって、
笑いは祈りと同じくらい
神聖なものだ。


Osho - Sermons in Stones

…FB に 友人がシェアしてる記事です。

(OSHO 講話の抜粋---)


瞑想とは
エネルギー現象だ。
エネルギーの全ての形態について、
ひとつ非常に基本的なことが
理解されねばならない。
「エネルギーは2極間を動く」
これが、
その理解を要する基本的な法則だ。
これが
エネルギーの唯一の動き方であり、
これ以外の動き方はない。
それは2つの対極の間を動く。

エネルギーが
力動的になる為には、
対極がいる。
それはちょうど
陰と陽の両極で動く、
電気のようなものだ。
陰極だけでは電気は起こらない。
陽極だけでも電機は起こらない。
両極が必要だ。
その両極が出会えば電気が発生する。
そうなれば、その電気が閃光を発する。

これは、
あらゆるタイプの現象について
言うことが出来る。
生は、男と女の間で、
両極の間で展開されてゆく。
女性は陰の生命エネルギーであり、
男性は陽の極だ。
それは電気的なものであり、
男と女があれほど互いに引き合うのは、
その為だ。

男性だけでは生は消滅するし、
女性だけでも生はあり得ず、
ただ死しかない。
男女の間にはバランスが存在する。
男女の間・・・この2極、
この両極の堤(つつみ)にこそ
「生」という河が流れる。

どこを見回そうと、
ひとつの同じエネルギーが
両極の間を動き、
自らのバランスを取っているのが分かる。
この両極性は、
瞑想にとって極めて意味深いものだ。
なぜなら
マインドは論理的だが、
生は弁証法的だからだ。

マインドが
論理的だと言う時、
それは
「マインドは直線的に進む」
ということを意味する。

生が弁証法的だと言う時、
それは
「生は直線的ではなく、
 正反対のものと共に動く」
ということを意味する。

それは陰から陽、
陽から陰というように
ジグザグに進む。
その動きはジグザグであり、
互いに相反するものを利用している。

だがマインドは線状に、
単純な直線上を進む。
それは決して
反対のものへ移行せず、
反対のものを否定する。
マインドは「一」を信じ、
生は「二」を信じる。

だから、
何であれ
マインドによって創り出されるものは、
必ず「一」を選ぶ。

たとえば
マインドが沈黙を選べば・・・
人生において創り出される、
あらゆる騒音にうんざりし、
沈黙を決意すれば・・・
その時、
マインドはヒマラヤへ行く。
マインドは沈黙したがっており、
いかなるたぐいの騒音とも
関わりを持ちたくなくなる。
鳥のさえずりでさえ妨げになる。
木々を吹き抜けるそよ風も妨げだ。
マインドは沈黙したい。
それは直線を選んでいる。
そうなると、
正反対のものは、
全く否定されなければならない。

だが、
ヒマラヤで暮らすその男は・・・
沈黙や静寂を求め、
他者や反対のものを避けているその男は、
死んだように生気がなくなる。
彼は明らかに鈍くなる。
静かになろうとすればするほど、
ますます鈍くなる。
なぜなら
生には正反対のものが、
その挑戦が必要だからだ。

2極間に存在する、
異なったタイプの静寂がある。
第1のものは、
死んだように生気のない静寂、
墓場の静寂だ。
死人は静かだが、
あなたはまさか
死人にはなりたくないだろう。
死人は完全に沈黙している。
彼を妨害出来る者はいない。
彼の集中は完璧だ。
彼のマインドを惑わすことは出来ない。
彼のマインドは完全に固定している。
たとえ世界中が
狂ったように騒ぎ立てても、
彼は「集中」したままだ。

だがそれでも、
あなたは死人でありたくはない。
それを静寂と呼ぼうが、
集中と呼ぼうが、
とにかく
あなたは死んでいたくはない。
いくら静寂であろうと、
死んでいたのでは意味がないからだ。

静寂は、
自分が本当に生き生きとし、
活力に溢れ、
生命力に満ちている時に
起こらなければならない。
そういう静寂なら意義がある。
だがその静寂には、
全く次元の違う質がある。
それは鈍くなく、
生き生きとしている。
2つの極の間の精妙なるバランスだ。
生きたバランス、
生きた静寂を探求する人は、
ヒマラヤ山脈と世間の、
両方に行こうとする。
騒音を楽しむ為に
市場へも行くし、
静寂を楽しむ為に
ヒマラヤの山々へも行こうとする。
彼は両極間にバランスを見い出し、
そのバランスの中に留まり続ける。

だが、
そのバランスは
直線的な努力では達成出来ない。
禅の「無努力の努力」という方法が
意味するのは、それだ。
禅は矛盾した語彙を用いる。
「無努力の努力」
「門なき門」
「道なき道」といった風に・・・。
禅は常に、即座に、矛盾した語彙を用い、
その過程が直線的ではなく、
弁証法的だと暗示する。

対極は、
否定されずに吸収されるべきだ。
対極を置き去りにしてはならない。
それは使われなければならない。
置き去りにすれば、
それはあなたにとって、
常に重荷になる。
置き去りにすれば、
それはつきまとう。
それを使わなければ、
あなたは多くのものを
取り逃がすことになる。

エネルギーは、
変換して使うことが出来る。
そうなれば、
それを使うことによって、
あなたはより活気に満ち、
生き生きとして来る。
対極は、
吸収されなければならない。
そうすれば、
その過程は
弁証法的なものとなる。

無努力とは
何もしないこと、
アカルマ、
すなわち無活動、
無為を意味する。
努力とは
多くを為すこと、
カルマ、
すなわち
活動を意味する。
その両方が
なければならない。
多くのことをしながらも、
その行為者であってはならない。
そうすれば、
あなたはその両方を達成する。

世間の中へ入って行きなさい。
だが、
その一部であってはならない。
世間の中に住みながらも、
世間を自分の中に
住まわせてはならない。
そうなれば、
対立や矛盾は吸収されている。
それが私のしていることだ。

ダイナミック瞑想は、
ある意味では矛盾だ。
ダイナミックとは、
努力、多くの努力、
絶対的な努力を意味する。
そして瞑想とは、
静寂、無努力、無為を意味する。
だからダイナミック瞑想を、
弁証法的瞑想」と呼んでもよい。

Osho - My Way:Way of the White Cloud

友人の---FB 投稿記事です(OSHO 講話の抜粋)

昔あるところに
優れた儒学者が住んでいた。
彼は八十歳に近い紳士であり、
その博学な知識と理解において、
彼の右に出る者はないと
言われていた。
ところが
彼の有する知識よりも
もっと深い、
新しい教義が
遠くで生まれたという
噂が広まった。
老齢の紳士は
それを黙認できなくなり、
この問題に黒か白か
決着をつけなければならない
と思った。
老齢にもかかわらず、
彼は長旅に出かけた。
数ヶ月もの厳しい旅路を終えて
目的地に着くと、
彼は自己紹介をして
来意を告げた。

主人は
新しい禅の流派に属する師だったが、
ただ次のような句を引用した。
「悪しき行いを避け、
 あたうるかぎりの善を行なう。
 これがあらゆる覚者(ブッダ)たちの教えだ」

これを聞いた
儒学者の老紳士はかっとなった。
「老齢の身に鞭を打ち、
 生命の危険を冒してまで
 長く険しい旅をしてきたのに、
 三歳の子供でもそらんじるような
 ささいな句を引用するだけとは!
 私を馬鹿にしているのか?」

だが禅師は応えた。
「貴方を
 馬鹿にしているわけではありません。
 確かに三歳の子供ですら
 この句を知っていますが、
 八十歳の老人でさえ
 それを実行できないことに
 思いを致してください!」

宗教が問題にするのは
知ることではなく、
それを生きることだ。
宗教とは生であり、
それを生きないかぎり、
それが何であるのか
何ひとつ知ることはできない。

そして宗教を生きるためには、
哲学をすべて落とし、
実際に試してみることを
はじめなければならない。
人は実験室に
ならなければいけない。

科学者の実験室は
外界にあるが、
宗教的な人の実験室は
その人自身の存在、
その人自身の肉体、
その人の魂、
その人の心だ。
科学者は
実験の対象となる事物に
精神を集中しなければならない。
科学者は目を開けて
仕事をしなければならない。
宗教の仕事は
目を閉じて
行なわなければならない。
自分自身に
精神を集中しなければならない。

そして
それは一筋縄ではゆかない。
というのも、
宗教の世界では
実験する者と
実験の対象が同じだからだ。
それゆえに
それは入り組んでいて、
風変わりで、
解釈しがたく、
非論理的なものになる。
宗教の世界では
知る者と
知られるものは同じだ。

科学の世界では
知る者は分離している。
知られるものは分離している。
ものごとは
明確に分けられており、
境界が定められている。

だが、
宗教では
あらゆるものが融合し、
互いに溶け合っている
知る者ですら
分離したままではいられない。
宗教は知る者から
遊離した知識など与えない、
知る者から
遊離した体験など与えない。
それが与えるのは
知る者の
エッセンスそのものだ。

宗教的な
探求者であるためには、
いっさいの哲学を
落とさなければならない。
先験的知識を
すべて落とさなければならない。
なぜなら、
先験的な知識は
すべて障害になるからだ。
それは問うことを妨げる。
問いかけは
不誠実なものになる
その最初の一歩から
問いかけは曇らされてしまう。

すでに
結論を出していながら、
どうして
問いかけることができるだろう?

キリスト教徒でありながら
宗教的であることはできない。
あるいは
ヒンドゥー教徒でありながら
宗教的であることはできない。
ヒンドゥー教徒でありながら、
どうして
宗教的でいることができるだろう?
ヒンドゥー教徒であるということは、
すでに結論を出していて、
何が真理か
決めてしまっているということだ。

そうだとすれば
問いかけてみても仕方がない。
何を問いかけるというのだろう?
あなたがやるのは、
すでに
結論付けていることがらの裏付け、
論証を探し出すことでしかない。
だが、
その結論は
間違っているかもしれない
わかりはしない。
その結論はあなたのものではなく、
社会から渡されたものだからだ。

社会はしきりに
あなたに結論を与えようとする。
あなたが自分で結論に到れるよう
意識を与えようとはしない。
あなたが意識的になる前に、
少しでも問いかけがはじまる前に、
社会は
ありとあらゆる結論を詰め込んで、
何がなんでも
その問いかけを阻もうとする。
なぜなら、
その問いかけは
社会にとって危険だからだ。

問いかけない人間は扱いやすい。
問いかけない人間は従順だ。
すなおに命令や指令を受け取り、
それに従う。
彼は法を尊重し、
因習を守る。

ひとたび誰かの心に
わずかでも信仰を吹き込めば、
薬物を飲ませたことになる。
信仰は麻薬だ。
彼はいったん信じ込むと、
どこまでも
しゃにむに信じてゆく。
やがて徐々に、
彼はその信仰が
自分自身の体験であると
思い込むようになってゆく。

信仰というのは
催眠のシステムだ。
あなたは子供に
「おまえはヒンドゥー教徒だ。
 おまえはヒンドゥー教徒だ」
とどんどん暗示をかけてゆく。
子供を寺に連れてゆき、
宗教的な、
いわゆる宗教的な儀礼
儀式を体験させる。
やがて子供は条件付けられ、
自分はヒンドゥー教徒であり、
ヒンドゥー教はすべて正しく、
それ以外の宗教は
すべて間違っていると
思い込むようになる。

そして、
同じことが
あらゆる社会で行なわれている。
あなたがたは
子供たちに麻薬を与えてきた。
子供の意識のまさに源が
毒されてきた。

そしてもし何かを信じたら、
それは真実のように見えてくる。
もし何かを信じはじめたら、
その裏付けとなるもの、
それを助ける証拠となるものが
続々と見つかるようになる。

あなたの自我がからんでくる。
真実かどうかだけでなく、
奥深くで問題になっているのは
「どちらが正しいのだろう?
 私だろうか君だろうか?
 私が間違っているはずがない?
 私が正しいにちがいない」
ということだ。

だからあなたは
自分を支えてくれるものばかりを
選び取る。
そして生はひじょうに複雑であり、
そこでは
ありとあらゆるものを
見つけることができる
あなたが選び取り、
決定したものは何でも見つかる。

あなたが悲観主義者であれば、
その悲観主義を裏付ける
ありとあらゆる論拠が
生のなかに見つかる。
あなたが楽観主義者であれば、
ありとあらゆる論拠を
手にすることができる。

生は二元的であり、
生は逆説に満ちており、
生は多次元的だ。
この世にこれほど多くの
哲学、主義、神学が存在するのは
そのためだ。
そしてどの神学も
独自の結論の殻に閉じこもり、
自分が一番正しいと信じている。

ようやく現代において
信奉者たちは
少しとまどうようになった。
これは大いなる祝福だ。
なぜなら、
彼らは他の信奉者たちの存在にも
気付きはじめたからだ。
今やヒンドゥー教徒
それほど得意になり、
自己満足してはいられない。
キリスト教徒の存在を
知っているからだ。
そしてキリスト教徒も、
自分たちだけが
真理の版権を手にしていると
信じ続けることはできない。
イスラム教徒もいるし、
道教徒もいるし、
仏教徒もいるということを
知っているからだ。
そして
誰も当てにならない。
現代はひじょうに混乱している
かつてなかったほど混乱している。

だが、
覚えておきなさい。
この混乱は大いなる祝福だ。
何かが途上にある。

何かとほうもなく重要なことが
起ころうとしている。
この精神の混沌(カオス)は
新しい夜明けのはじまりだ。

将来には、
人々は
イスラム教徒にも、
ヒンドゥー教徒にも、
仏教徒にもならないだろう。
人々は問いかける者たちとなる。
信仰はなくなり、
信仰の闇は姿を消しつつある。
これからは
誰も信仰をもたなくなってゆく。
人々は問いかけ、
見いだしたときに信頼するだろう。
信仰は借り物であり、
信頼はその人自身の体験だ。


Osho - The Secret Of The Secrets