saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

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(OSHO 講話…抜粋)

まず、
サニヤシンは、
生は不確実だということを
理解しなければならない。
保険で死は避けられない。
生を安全で
確実なものにしようと
すればするほど、
生はより乾いた、
味気ないものになる。

不確実性は、
不断の覚醒を要求する。
あらゆる危険に対する、
絶え間ない気づきが
必要だからだ。
そして、
生とはつねに、
剃刀の刃を渡るようなものだ。
安全と確実さ、
それらは危険な考えだ。
生は安全で確実だと思うならば、
気づきをもって、
意識的に生きようとする姿勢を
失ってしまう。
実際のところ、
安全と確実さを求めるのは、
気づきをもって、
意識的に生きるのを
避けたいためだ。

生の瞬間から瞬間を、
それがもたらす、
すべての不確実性とともに
生きなさい。
樹々も生きている、
鳥たちも生きている、
動物たちも生きている。
それでも彼らは、
保険のことなど
気にかけない。
安全のことなど
まったく考えない。
彼らは心配していない。
だからこそ、
朝が来るたびに、
鳥たちは歌えるのだ。
 
あなたには、
朝が来ても歌えない。
おそらく、
朝に歌ったことなど
ないだろう。
あなたは毎晩、
いたるところにある
不確実性や不安定性、
あるいは
危険のことを思って
夢でうなされる。
朝が来ても、
あなたの目覚めには
喜びがない。
今日もまた、
新しい1日がもたらす
不確実性、
つまり、
さまざまな問題や心配事に
直面しなければならない。
 
だが、
鳥の声に
耳を傾けるといい。
鳥たちは、
何も失っていない。
鹿を見なさい。
その美しさ、
その敏捷さを見なさい。
樹を見なさい。
いつ切り倒されるか
わからないのに、
心配していない。
その関心は、
次の瞬間にはなく、
この瞬間にだけ
あるからだ。
この瞬間には
喜びしかない。
平和しかない。
葉は青々と茂り、
樹液にあふれている。

あなたが
年をとったことはわかる。
年をとったとは、
死が近づいたということだ。
だが、
それは食い止められない。
不死を実現した人はいない。
それならば、
それについては
気にしないことだ。
起こることは起こるのだ。
だが、
どうして、
まだ起こっていないことを
心配して、
この瞬間を
台無しにするのだ。
死については、
死んでから心配すればいい。
墓のなかで永遠に、
安定だの
安全などを
心配すればいい。
ほかにすることも
ないのだから。
 
墓のなかで、
来る日も来る日24時間、
煩悶するといい。
誰にも邪魔されない、
安全きわまりない場所だ。
出たくても
出ることさえできない。
邪魔者は入ってこれない。
絶対的な安全を享受できるのは、
墓に入った人びとだけだ。
彼らには、
何も起こらない。

強烈に生きる人ほど、
不確実性を愛する。
不確実性は、
知性を磨き、
気づきを鋭くし、
意識における
意識的成長をもたらす。

気づいたことが
あるだろうか。
金持ちの家庭に、
偉大な科学者が
生まれたことはなかった。
偉大な詩人や
神秘家が
生まれたこともない。
金持ちの家庭は、
意識の発展や
人間の成長に、
ほとんど貢献していない。
どうしてだろう。
金のスプーンをくわえて
生まれてきたような子どもは、
安定とか安全のために
頭を悩ませる必要がないからだ。
すべては
すでに安全で確実だ。
当然、
頭は鈍る。
なんの兆戦もない。
いつも、
召使いや家族や贅沢に
取り囲まれている。
意識、気づき、
あるいは瞑想のことなど、
考えるときさえもない。

いいかな。
2、3年前までは、
世界中にヒッピーがいた。
彼らはみな、
30歳未満だった。
そして、
だれも気がつかなかった
かもしれないが、
おもしろい現象が
起こっていた。
30歳になったヒッピーは、
どこに消えるのだろう。
30歳になると、
彼らは、
安全と安定を
心配するようになる。
人生の半分は過ぎた。
これまでは
存分に楽しんできたが、
老齢と死が近づいてきている。
彼らはヒッピーの哲学を
忘れてしまう。
突然、
「スクエア」に変身するのだ。
 
友人たちから
聞くところによると、
かつては風呂にも入らず、
ひげも剃らず、
歯も磨かかなかった、
これらのヒッピーたちは、
今では風呂に入り、
ひげを剃り、歯を磨き、
完全に正常にふるまっているらしい。
彼らは働いていると言う。
オフィスや工場で、
有能に働いているそうだ。
ヒッピーはそうして消えた。

年をとるにつれ、
死の影が忍び寄ってくる。
それが恐怖の原因だ。
だが、
サニヤシンにとって、
死は存在しない。
 
死や将来の不安に
おびえているならば、
それは単に、
あなたの瞑想には
深みが足りないこと、
あなたにとって、
瞑想は
ファッションでしか
なかったことを意味する。
今こそ誠実に、
そして真剣に、
瞑想に入っていくべきときだ。
ただ瞑想の空間だけが、
あなたを、
死、老い、病気への恐怖から
解放するのだから。

あなたは瞑想によって、
自分が肉体でもなく、
マインドでもなく、
また、
この生に
限られたものでもなく、
自分は永遠の生であることを
知るだろう。
死はこれまでにも
何回も起こった。
だが、
あなたは今も生きている。
これからもまた、
死は何回も起きるだろう。
そしてそれでも、
あなたはなお
生きているだろう。
 
瞑想がもたらす
究極の結論はこれだ。
すなわち、
瞬間をトータルに、
強烈に、
喜々として生きること。
なぜなら、
恐れるものは何もない、
死さえも虚構なのだから。
どんな確実さや安全を
求める必要もない。
鳥たちが、
あるいは
樹々がそうしているように、
全存在を信頼し、
瞬間から瞬間を生きなさい。
自分を
存在から分離させずに、
その一部となりなさい。
そうすれば、
存在は
あなたを養ってくれる。
存在は今でも、
あなたを養っている。
 
深く見つめれば
わかるだろうが、
マインドは
ほんとうに愚かだ。
どんなマインドもそうだ。
マインドは、
絶え間なく、
あらゆるたぐいの
心配事や問題を作り出す。
私からあなた方への
メッセージは、
あなたは
マインドではない
ということだ。
あなたに必要なのは
説明ではなく、
体験だ。
そして体験こそ、
あなたに欠けているものだ。
だから問題が現れる。

飛行機のなかで、
添乗員から
飲物を受け取った男が言った。
「これは珍しい、
 穴のついた氷じゃないか」
隣席の男が言った。
「珍しいものか。
 おれはあんたが言うようなのと
 結婚している」

マインドが言ったり
考えたりすることを、
あまり真剣に
受け取らないことだ。
ただ、
それを見て、
笑いなさい。
 
マインド・ゲームを避けなさい。
マインドを超え、
純粋な空間だけが
広がるところに赴きなさい。
そこには不確実性はない。
安全に関する問題はない。
その静けさのなかで、
すべては安全だ。
あなたは、
この存在の一部だ。
 
あなたの心配は、
樹の葉が、
安全について
心配しているようなものだ。
樹がすべての面倒を
見てくれている。
必要な樹液を供給し、
重力に逆らって、
100フィートから
200フィートの高さにまで
水を運んでいる。
それでも樹の葉は、
心配をやめない。
それは、
自分が
大木の一部であることに
気づかない。
 
あなたは
広大な存在の一部だ。
自分は切り離されていると
考えるのをやめなさい。
そうすれば、
即座に、
あなたの問題は消滅する。
言い換えれば、
あなたのエゴが、
唯一の問題だ。
「私はある」、
それが唯一の問題だ。
「私はいない。
 存在だけがある」、
それが唯一の解決だ。


Osho - The New Dawn

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(講話/抜粋)

「宗教は人々にとって阿片だ」
という
カール・マルクスの有名な言葉がある。
彼は宗教については何も知らなかった。
なぜなら、
宗教を除いた他の一切が、
中毒性を持つ阿片だからだ。

富への奔走、
地位への奔走....
これらはみな麻薬だ。
それらの陶酔から目覚めるための
唯一の手段が宗教だ。

わたしたちは
夢の中に生きている。
それゆえ
真実と通じ合わない。
真実を知らないかぎり、
わたしたちは幸福になれない。
幸福とは、
わたしたちが真実を
知り始めることによって生じる
芳香だ。

夢の中に生きるなら、
苦悩を創造するばかりだ。
なぜなら
実在しないものから
幸福は生まれないからだ。
存在しないこれらの夢は、
繰り返し辛苦の種となる。
あまたの手段を講じ、
幸せになろうと試みる事はできる。
だが、
それは起こらない。
ないものはない。
在るものだけがある。

「宗教」とは、
在るものの探求だ。
「非宗教」とは
ないものへの欲望だ。
存在しないもの、
存在し得ない数多くの物事を、
人間は求めてやまない。
しかし、
何とか
自分の夢を叶えたところで、
あなたの内側は依然として空虚だ。
食事をした夢を見て、
満腹になった人がいるだろうか。
どうして
夢に渇きが癒せるだろう。
自分の夢で自分を欺き、
自ら巻き込まれ、
夢の中で暮らすようにすれば、
夢はあなたを忙しくさせ続ける。
しかし、
達成することも、
岸にたどり着くこともない。

夢に岸はない。
真実には岸がある。
問題は、
夢の中で駆けまわっていると
真実から
遠ざかってしまうということだ。
夢は真実の対極だ。
だから、
夢の中で
駆けまわっているとすれば、
刻一刻と自分自身を
真実から
阻(はば)んでいることになる。
これらの夢は決して成就されない。
そして
成就されたはずのものが
阻まれている。
自らの欲求のために、
自らがなれたものになれずにいる。

深い処では
すでにあなたであるもの、
あなたがなれるのは
そういったものでしかない。
種は花になる。
だがそれは内在する花だ。
今のところ、
それは隠されていて、
ある日現れる。

神聖なるものは、
すでに人間の内に潜んでいる。
たまにその潜んでいるものが姿を現す.....
帰依者の中に、
光明を得た神秘家の中に出現する。

あらゆる人間存在は神性の種だ。
だが、
わたしたちのエネルギーは、
その他の無数の方向に流れてしまう。
それゆえ種はエネルギーを
まったく受け取ることができず、
培(つちか)われない。

気づいたことがあるだろうか。
市場に向かうのと
寺院に向かうのとでは、
あなたの意気込みが違うことに。
あなたは、
お金を数えるときと同じほど
心を傾けて数珠を繰らない。
あなたは
地位を欲するときと同じほどの
熱意を込めて、
神聖なるものを求めたことがない。
神聖なるものの扉にすら、
世間的な願い事をする。
あなたの愚かしさには限界がない。
神聖なるものの扉にすら、
世間的な要求のためだけに向かう。
寺院に向かうのは、
実のところ世界における
必要のあるときだけだ。
富、名声、威信、地位
といった必要が。
神聖なものにすら、
相も変わらず持ったことのない、
常日頃欲望しているものを乞い求める。
自分の夢のためにすら、
神聖なるものの助けを探し求める。

自分が求めるものは
一切無益であり、
ただの屑にすぎない、
たとえ
それを得たところで
何にもならないということ、
これが完全に明白になって初めて、
あなたはの目は神聖なものに向かう。

そもそも、
あなたがそれを得ることはない。
得たとしても、
あなたはまだ何も得ていない。
地球全体を手に入れて
世界の統治者になっても、
実際に何を得るだろう。
依然として内側は、
現在のあなたとまったく変わらない。
惨めで不安で、動揺し、苦悩し、困っている。
おそらく、
少々問題が増えるだけだ。
世界の問題を一手に
引き受けることになるのだから。
そうなると厄介事が尽きない。

宗教は陶酔ではない。
阿片ではない。
宗教以外の一切が
中毒性を持つ阿片だ。
宗教、宗教的であること、
それこそが、
これらの中毒症状から人を救う
唯一の手段だ。
宗教性こそが唯一の解毒だ。

だから初めに
注目すべき点はこれだ。
何が夢で何が真実か。
試金石はどこにあるのか。
どうやって見ているものを夢と知るか。
どうやって求めているものが、
自らの夢の一部にほかならないと
認識するか。

これについて、
一番に言えることは、
どんな場合にせよ
真実は求める必要がないということだ。
求めることができるのは、
何にせよ夢だ。
求める必要があるのは
非真実のみだ。
真実はただ在る。
それに向けて、
ただ目を開いているだけで充分だ。
求める必要はない。

・・・
探求し始めるなら、
たちまちにして
あなたはそれを失うという
有名な老子の言葉がある。
まさに「探求」という
その言葉の意味こそ、
自分の持っていないものを
探すということだ。
在るもの、
それはあなたを
全面的に取り巻いている。
内側にも外側にも.....
いたるところ。
それは
内側の探求者でもある。
探し求めるものは
内側にあって、
それが
あなたの目を通してみている。
それを目にするのは、
自分の外側ばかりではない。
それは
あなたの全身の毛穴に浸透する。
全呼吸に浸透する。
すでに自分が持っているものを、
何故探し求めるのだろう。
必要なのは、
ただそれを見ることだけだ。

わたしは同じことを
あなたに言おう。
探し求める必要はない。
必要なのは、
神聖なるものを
当然の権利として主張すること、
それだけだ。
探求するその瞬間、
あなたは逸する。
探求するということは、
単にヒンドゥー教の神、
イスラム教の神、
キリスト教の神を
探し求めているということだ。
探求するということは、
概念としての人の神を
探しているということだ。
神を見いだしたければ、
神についての概念の
一切を投げだしなさい。
解放しなさい、
探求さえも。
座りなさい、
空っぽになって。
探求のない意識において、
神聖なるものが明かされる。
探求から解放された意識には、
どんな波も立たないからだ。
何の欲望もなければ、
どうやって波が立つだろう。
達成すべきものがないとき、
行くべきところがないとき、
どうすれば緊張、
落ち着きのなさがあるだろう。
この究極の静穏の状態において、
神性は全面からあなたを取り巻く。
それはすでに
あなたを取り巻いていた。
そして、
この静穏の状態に在ることで、
あなたがそれに
気づくようになったのだ。

しかし、
わたしたちは、
神聖なるものを探求するどころか、
つまらぬ頼み事を
しに行くぐらいのものだ。
祈っているときに
頼み事をするなら、
あなたは罪を犯している。
祈りながら
要求するぐらいなら、
祈らない方がまだいい。
なぜなら、
それこそ、
これを証明しているからだ....
あなたがまだ
神聖なるものについて
何もわかっていないということ、
自分のつまらぬ欲望のために
神聖なるものを
利用したいということを。
裁判に勝たなくてはならない、
仕事がうまくいかない、
店が倒産しそうだ、
妻がいない....
そんな頼み事をするために、
神聖なるもののところへ
行ってはならない。


Osho - Last Morning Star

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( OSHO の講話、抜粋しています。 )
  

あなたは金を欲しがる。
あるいは瞑想を欲しがる。
欲望は同じだ。
ただ対象が
変わっただけのことだ。
が、
対象が問題なのではない。
問題は欲望そのものに、
欲しがることにある。

ある者は、
この世で長生きしたがる。
この世で美しい容姿を欲しがる。
成功や評判や名声を欲しがる。
またある者は、
楽園で神と共にある
永遠の生命を欲しがる。
そこにどんな違いがある?

違いというのは、
前者のほうが後者ほど
欲ばりではないということだ。
後者のほうがずっと貪欲だ。

だからこそ、
あなたがたの
いわゆる
スピリチャルな人たちというのは
ひじょうに欲が深い。

インドがとても貪欲なのは
ただの偶然ではない。
インドがとても精神的だからだ。
その精神性が
新たな欲望を生みだす。

実際、
いあゆる聖人と
称される人たちは
人々にこう教えつづけている。
「この世のものを
 欲しがってはならない。
 なぜなら、
 それはつかの間のものだからだ。
 あの世のものを願うがいい。
 なぜなら、
 それは永遠だからだ。」

これを
”放棄”と呼ぶかね?
これが放棄かね?
これはさらに
貪欲になることだ。
これは
永遠の報酬を求めることだ。

世俗的な人は単純だ。
彼らはつかの間の欲望で
満足している。

ところが、
あの世的な人々は
ほんとうに欲が深いようだ。
彼らは
この世で満足しない。
彼らには
快楽が永遠に続き、
美貌がけっして衰えず、
いつも若いままでいられ、
生きても生きても
絶対に年をとらない
別の世界が必要だ。

これは強欲だ!
あの世に移された
まぎれもない強欲だ!
最初の者たちより
もっと欲が深い。

この”精神の物質主義”と
称されるものを避けなさい。
それはまったく物質主義的だ。
それはあなたの生を変えない。
それには
変えることができない。
それはあなたの
古いマインドを太らせるだけだ。
それはあなたを
もっと駄目にする。

・・・
ものを
捨てるのではなく、
自分の自己を捨てなさい。
そうすれば、
ものは
自然に離れてゆく。

私が存在しなければ、
いかに家を所有できよう?
私が存在しなければ、
いかに子どもを所有できよう?
私が存在しなければ、
所有することは不可能だ。
所有するものは誰もいない。
その違いを見なさい。


Osho - Take It Easy