saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

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( OSHO の講話、抜粋しています。 )
  

あなたは金を欲しがる。
あるいは瞑想を欲しがる。
欲望は同じだ。
ただ対象が
変わっただけのことだ。
が、
対象が問題なのではない。
問題は欲望そのものに、
欲しがることにある。

ある者は、
この世で長生きしたがる。
この世で美しい容姿を欲しがる。
成功や評判や名声を欲しがる。
またある者は、
楽園で神と共にある
永遠の生命を欲しがる。
そこにどんな違いがある?

違いというのは、
前者のほうが後者ほど
欲ばりではないということだ。
後者のほうがずっと貪欲だ。

だからこそ、
あなたがたの
いわゆる
スピリチャルな人たちというのは
ひじょうに欲が深い。

インドがとても貪欲なのは
ただの偶然ではない。
インドがとても精神的だからだ。
その精神性が
新たな欲望を生みだす。

実際、
いあゆる聖人と
称される人たちは
人々にこう教えつづけている。
「この世のものを
 欲しがってはならない。
 なぜなら、
 それはつかの間のものだからだ。
 あの世のものを願うがいい。
 なぜなら、
 それは永遠だからだ。」

これを
”放棄”と呼ぶかね?
これが放棄かね?
これはさらに
貪欲になることだ。
これは
永遠の報酬を求めることだ。

世俗的な人は単純だ。
彼らはつかの間の欲望で
満足している。

ところが、
あの世的な人々は
ほんとうに欲が深いようだ。
彼らは
この世で満足しない。
彼らには
快楽が永遠に続き、
美貌がけっして衰えず、
いつも若いままでいられ、
生きても生きても
絶対に年をとらない
別の世界が必要だ。

これは強欲だ!
あの世に移された
まぎれもない強欲だ!
最初の者たちより
もっと欲が深い。

この”精神の物質主義”と
称されるものを避けなさい。
それはまったく物質主義的だ。
それはあなたの生を変えない。
それには
変えることができない。
それはあなたの
古いマインドを太らせるだけだ。
それはあなたを
もっと駄目にする。

・・・
ものを
捨てるのではなく、
自分の自己を捨てなさい。
そうすれば、
ものは
自然に離れてゆく。

私が存在しなければ、
いかに家を所有できよう?
私が存在しなければ、
いかに子どもを所有できよう?
私が存在しなければ、
所有することは不可能だ。
所有するものは誰もいない。
その違いを見なさい。


Osho - Take It Easy

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ある男が仏陀のもとへ行った。
彼は人類のために
何かをしたかった。
彼は大金持ちだった。
彼は仏陀に尋ねた。
「人類のために
 私にできることを教えてください。
 私にはたくさんの金があります。
 子供もなく、
 妻は死に、
 独り身ですから、
 何でもすることができます」

仏陀はとても悲しげな目で
男を見つめて沈黙していた。
男は言った。
「なぜ
 黙っておられるのですか?
 なぜ
 話をしてくださらないのですか?
 あなたはいつも
 慈悲について語っておられます。
 私には
 何でもする用意があります。
 おっしゃってくだされば
 何でもします。
 大丈夫です――
 私には充分な金がありますから!
 どんな仕事でも
 与えてくだされば
 やり遂げます」

仏陀は言った。
「あなたが言っていることは
 わかるが、
 私は悲しいのだ。
 あなたは
 ものごとを為すことができない。
 なぜなら、
 あなたはまだ
 存在していないからだ。
 何かを為すことが
 できるようになる前に、
 人はまず存在するように
 ならなければいけない。
 問題は
 どれだけ金を
 もっているかではなく、
 あなた自身が
 いないことにある!」

慈悲心という質は
実存の影なのだが、
その実存が欠けている。

自我(エゴ)はけっして
慈悲心をもつことができない。
自我は非情だ。
慈悲のゲームを
演じているときでさえ、
自我は非情だ。

自我が消えてしまうと……
ときには自我のない人が
とても非情に見えることがある。
が、
そうではない。
彼は非情ではありえない。
彼のその非情さですら
深い慈悲にちがいない。

禅師が弟子の頭を
棒で打つのは非情ではない。
それは
とほうもない慈悲だ。

禅師が弟子に
飛びかかって殴るのは
非情ではない。
なぜなら、
ときおり師の一撃によって、
一瞬のうちに、
稲妻が闇を切り裂くように
弟子が
光明を得ることがあるからだ。

仏陀は言った。
「あなたには何もできない。
 金があることは知っている。
 あなたのことは耳にしていた。
 だが、
 あなたをのぞき込んだとき、
 私はひどく悲しくなった。
 あなたは
 何かをしたがっているが、
 何かを為すことができる
 要素が欠けている。
 あなたは
 夢を見ることしかできない」

だからヴィシュヌは言う。
「私が無償で与えたものに
 行為で報いることほど
 むずかしいことはない」

ゲオルギー・グルジェフ
弟子たちに言っていたのは
そのことだ。
彼がP・D・ウスペンスキー
最初に言ったことは
それ、まさにそれだった。
ウスペンスキー
偉大な探求者、
知識の探求者だった。
はじめて
グルジェフに会いに行ったとき、
彼はすでに世界的に有名な
数学者、思想家だった。
彼が書いた最も優れた本
『テルティウム・オルガヌム
はすでに出版されていた。

それは類まれな本だ――
著者がまだ
覚醒していなかった
という意味でもまれだ。
こんなに美しい作品を
どうして書くことが
できたのだろう?
覚醒した人間にしか
わからないような誤りが
二、三あるが、
ふつうの人間なら
まず気づかない。
それはまるで
ブッダが書いたかのように、
ほとんど完璧だ。

だが、
ゲオルギー・グルジェフ
その本に目を通すと、
あちこちの頁を
ぱらぱらとめくって、
それを部屋の外へ投げ捨て、
こう言った。

「まったくのたわごとだ!
 君は何もわかっちゃいない!
 そもそも君はいないのだ。
 その君にどうして
 知ることができるだろう?
 人はまず
 存在しなければならない。
 そこではじめて人は
 知ることができるようになる」

ウスペンスキー
師(マスター)を探して
東洋をくまなく旅した人物だった。
これは美しい物語であり、
まるで寓話のようだ。

彼はインドを旅した。
彼はセイロンやビルマへ行った。
彼は僧院やヒマラヤの洞窟で
暮らしたことがある。
ラマやスワミや
たくさんのヒンドゥー教
神秘家に会ったが、
誰も彼を満足させることが
できなかった。
なぜか?
それは彼らが語ったことは
みな経典の焼き直しに過ぎず、
ウスペンスキー
すでに学んでいたことだからだ。
彼ら自身の言葉は
ひとつもなかった。
失意のうちに、
彼は帰途についた。

彼はロシアに、
かつて暮らした
ペテルブルグにもどってきた。
ペテルブルグのある喫茶店で、
彼はグルジェフに会った。
その最初の出会いのとき、
師のまなざしを見て、
ウスペンスキーは悟った。
「この男こそ
 私が捜していた人物だ。
 私はこの町にずっと暮らし、
 この喫茶店に
 何年も通いつづけてきたが、
 探し求めていた人が
 この喫茶店に坐っている!
 セイロン、
 ネパール、
 カシミールなど
 遥か遠くの場所で
 探しつづけていたのに」

グルジェフは、
まず
ウスペンスキーにこう言った。
「自分が存在しないかぎり、
 君はものごとを
 知ることができない。
 自分が存在しないかぎり、
 君はものごとを
 為すことができない」

ところがパラドックスは、
自分が存在しなくなってはじめて、
「私」という言葉が
通用しなくなってはじめて、
人は存在するようになる
というところにある。


Osho - The Secret Of Secrets

…OSHO 抜粋講話---

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一般に
信じられているように、
欲望が
不安を
生みだすのではない―
不安が
欲望を生み出すのだ。
人は「不安」そのものだ。

先日、
私はあなた方に言った。
動物には不安がない、
と。
それは彼らが
何かになる(become)
必要がないからだ―
彼らはある(are)。

イヌはイヌであり、
トラはトラであり、
それで全く問題ない!

トラはトラに
なろうとしていない。
トラはある!
トラはすでにある!
いっさい
何かになる必要はない。

動物の世界には
不安というものがない。
ブッダの世界にも
不安というものがない。
彼らは到着しており、
なっているからだ。
彼らはシッダ、
存在(being)だ。
もはや
目標とするものはなく、
動きはない。
旅は完結した。
彼らは
<わが家>に
到着している…。

この二つの間に
人間がいる―
彼は半分は動物、
半分はブッダだ。
まさに
そこに不安がある。
不安とは
この緊張だ。

あなたの一部は
動物に
戻りたがっている。
それはあなたを
いつも引き戻そうとする。
それは言う。
「戻っておいで!
 あんなに
 すばらしかったじゃないか―
 どこへ行くつもりだい?」

もう一方の部分は
未来へ希望を抱き続ける。
何らかの間接的な形で、
あなたは
ブッダになることが
自分の天命であることを
熟知している。
種子はある!
そして、
種子はあなたに
言ってやまない。
「土を、
 正しい土壌を
 見つけ出せば、
 おまえは
 ブッダになるだろう。
 戻ってはいけない!
 前に進め…」

この綱引きが
「不安」だ。

「不安」は
理解されるべき
最も重要な言葉の
ひとつだ。
なぜなら、
それは単なる言葉に
とどまらないからだ。
それは、
まさに人が置かれている
状況だ。
これが人間の
ディレンマだ―

生きるべきか、
死ぬべきか?
これであるべきか、
あれであるべきか?
どこへ行ったらいいのか?
人は十字路で
立ち止まっており、
すべての可能性が
開かれている。
だが、
一つの可能性を選んだら、
ほかのすべての可能性を
捨てなければならない―
そこに恐れがある。

間違った選択を
したかもしれない。
右に行けば―
誰にわかるだろう?―
左に行く方が
正しかったかもしれない…。
これが「不安」だ。

どこへ行ったらいいのか?
何をしたらいいのか?
何をやるにしても、
不安がなくなることはない。

動物になってしまえば、
ブッダの部分が
それに反逆しようとする。
自分の動物の部分が
喜ぶことをやってみれば、
ブッダの部分が
あなたの中に
罪悪感をつくりだす…。
ひとつの部分に従えば、
もうひとつの部分が
罪悪感を感じさせる。

その逆もしかり。
これが「不安」だ。
この不安は
まさに実存的なものだ。
それに苦しむ者もいれば、
苦しまない者もいる
ということはない―
それはない。
それは実存的だ。
誰もがその中に
生み落とされている。

人類はその中に
生れついている。
人間は不安の中に
生れついている。
それが人間に
与えられた課題だ。
それは彼が
とかねばならない問題、
彼が越えなければならない
問題だ。

さて、
それを超越する方法は
二つある。
ひとつは
世間的な方法で、
それを
「欲望」と呼んでもいい。
欲望は
この不安を隠すやり方だ。
あなた
は狂ったように
金を稼ぐことに奔走する。
金もうけに夢中になり、
実存的な不安のことは
すっかり忘れてしまう。
そうなれば
真の問題について
考える時間も、
手がかりもなくなってしまう。
あなたは
すべてを脇におしやって、
金、さらなる金の追求に
のめり込む。
そして
金を得れば得るほど、
さらに大きな欲望が
起こってくる。
この金や政治権力を
求める欲望は、
不安を隠すための
覆いにほかならない…。

欲望は
不安を避けるやり方だが、
ただ避けることしかできない。
避けることで、
それを打ち壊すことは
できない。

欲望は
人に小さな不安を
与えるが、
いいかな、
それは
ごく小さな不安であって、
実存的なものではない。
もちろん、
金を稼いでいる時も、
あなたはいくつかの
不安はあるだろう―
取引のことや
株式市場のこと、
あれやこれやのこと、
それから価格。
多くの金を注ぎ込んだが、
それで
もうけることができるか、
それとも損するか?
こういった
小さな不安がある。

それは
ほんとうの不安とは
比べものにならない。
それは
ほんものを避けるための
トリックだ。

欲望は不安の隠蔽だ。
それはトリックであり、
策略だ。
そして、
瞑想とは、
その覆いをはがすことだ…。

真の瞑想は
テクニックではない。
真の瞑想は
単にくつろいで、
静かに坐り、
あるがままに
ものごとを起らせることだ。

すべての不安が浮上して、
表面化するのを許しなさい。
そして、
それを見守り、
見守り続ける。
それを
変えることは何もしない。
目撃が真の瞑想だ。
その目撃の中で、
あなたの仏性は
さらにもっと
力強いものになる。
目撃は仏性の滋養だ。
そして、
仏性が
力強くなればなるほど、
不安はいっそう
少なくなってゆく。
あなたの
仏性が成就した日、
すべての
不安は去っている。


Osho

…あなたは「もっと 愛 しなさい---」OSHO,の講話を抜粋------

…友人が OSHO 講話抜粋記事をシェアしています---ここに転載します。


多かれ少なかれ
誰の生も
恐怖に
支配されている。
なぜなら、
生を生きるには
ふたつの道しか
ないからだ。

愛に
支配されるか、
恐怖に
支配されるか。
一般的には、
愛することを
学ぶまでは、
生は
恐怖に支配される
ことになる。
愛がないときには、
恐怖の存在は
避けがたい。
それは
愛の不在にすぎない。
愛することができれば、
恐怖は消え失せる。

だから、
私があなたに言いたい
ひとつのことは、
恐怖に
注意を払いすぎては
いけないということだ。
それは
自己催眠になる。

自分は
恐怖とともに
生きているのだと
考えつづけたら…、
あなたの生は
恐怖に
支配されるようになり…
それでおわってしまう。

それが
示しているのはただ、
恐怖を消し去るのに
充分なほど
愛が強くは
なっていない
ということだ。
恐怖は
ただの症状にすぎない。
それは病気ではない。
治療法もないし…
その必要もない。
それは
ただ症状でしかなく、
それでいて
極めて有用でもある。

つまり
それが示していることは、
もうこれ以上、
生を浪費しては
いけないということだ。
あなたは
“もっと愛しなさい”
と言われている。


Osho - Hammer on the Rock