saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…OSHO 抜粋講話---

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一般に
信じられているように、
欲望が
不安を
生みだすのではない―
不安が
欲望を生み出すのだ。
人は「不安」そのものだ。

先日、
私はあなた方に言った。
動物には不安がない、
と。
それは彼らが
何かになる(become)
必要がないからだ―
彼らはある(are)。

イヌはイヌであり、
トラはトラであり、
それで全く問題ない!

トラはトラに
なろうとしていない。
トラはある!
トラはすでにある!
いっさい
何かになる必要はない。

動物の世界には
不安というものがない。
ブッダの世界にも
不安というものがない。
彼らは到着しており、
なっているからだ。
彼らはシッダ、
存在(being)だ。
もはや
目標とするものはなく、
動きはない。
旅は完結した。
彼らは
<わが家>に
到着している…。

この二つの間に
人間がいる―
彼は半分は動物、
半分はブッダだ。
まさに
そこに不安がある。
不安とは
この緊張だ。

あなたの一部は
動物に
戻りたがっている。
それはあなたを
いつも引き戻そうとする。
それは言う。
「戻っておいで!
 あんなに
 すばらしかったじゃないか―
 どこへ行くつもりだい?」

もう一方の部分は
未来へ希望を抱き続ける。
何らかの間接的な形で、
あなたは
ブッダになることが
自分の天命であることを
熟知している。
種子はある!
そして、
種子はあなたに
言ってやまない。
「土を、
 正しい土壌を
 見つけ出せば、
 おまえは
 ブッダになるだろう。
 戻ってはいけない!
 前に進め…」

この綱引きが
「不安」だ。

「不安」は
理解されるべき
最も重要な言葉の
ひとつだ。
なぜなら、
それは単なる言葉に
とどまらないからだ。
それは、
まさに人が置かれている
状況だ。
これが人間の
ディレンマだ―

生きるべきか、
死ぬべきか?
これであるべきか、
あれであるべきか?
どこへ行ったらいいのか?
人は十字路で
立ち止まっており、
すべての可能性が
開かれている。
だが、
一つの可能性を選んだら、
ほかのすべての可能性を
捨てなければならない―
そこに恐れがある。

間違った選択を
したかもしれない。
右に行けば―
誰にわかるだろう?―
左に行く方が
正しかったかもしれない…。
これが「不安」だ。

どこへ行ったらいいのか?
何をしたらいいのか?
何をやるにしても、
不安がなくなることはない。

動物になってしまえば、
ブッダの部分が
それに反逆しようとする。
自分の動物の部分が
喜ぶことをやってみれば、
ブッダの部分が
あなたの中に
罪悪感をつくりだす…。
ひとつの部分に従えば、
もうひとつの部分が
罪悪感を感じさせる。

その逆もしかり。
これが「不安」だ。
この不安は
まさに実存的なものだ。
それに苦しむ者もいれば、
苦しまない者もいる
ということはない―
それはない。
それは実存的だ。
誰もがその中に
生み落とされている。

人類はその中に
生れついている。
人間は不安の中に
生れついている。
それが人間に
与えられた課題だ。
それは彼が
とかねばならない問題、
彼が越えなければならない
問題だ。

さて、
それを超越する方法は
二つある。
ひとつは
世間的な方法で、
それを
「欲望」と呼んでもいい。
欲望は
この不安を隠すやり方だ。
あなた
は狂ったように
金を稼ぐことに奔走する。
金もうけに夢中になり、
実存的な不安のことは
すっかり忘れてしまう。
そうなれば
真の問題について
考える時間も、
手がかりもなくなってしまう。
あなたは
すべてを脇におしやって、
金、さらなる金の追求に
のめり込む。
そして
金を得れば得るほど、
さらに大きな欲望が
起こってくる。
この金や政治権力を
求める欲望は、
不安を隠すための
覆いにほかならない…。

欲望は
不安を避けるやり方だが、
ただ避けることしかできない。
避けることで、
それを打ち壊すことは
できない。

欲望は
人に小さな不安を
与えるが、
いいかな、
それは
ごく小さな不安であって、
実存的なものではない。
もちろん、
金を稼いでいる時も、
あなたはいくつかの
不安はあるだろう―
取引のことや
株式市場のこと、
あれやこれやのこと、
それから価格。
多くの金を注ぎ込んだが、
それで
もうけることができるか、
それとも損するか?
こういった
小さな不安がある。

それは
ほんとうの不安とは
比べものにならない。
それは
ほんものを避けるための
トリックだ。

欲望は不安の隠蔽だ。
それはトリックであり、
策略だ。
そして、
瞑想とは、
その覆いをはがすことだ…。

真の瞑想は
テクニックではない。
真の瞑想は
単にくつろいで、
静かに坐り、
あるがままに
ものごとを起らせることだ。

すべての不安が浮上して、
表面化するのを許しなさい。
そして、
それを見守り、
見守り続ける。
それを
変えることは何もしない。
目撃が真の瞑想だ。
その目撃の中で、
あなたの仏性は
さらにもっと
力強いものになる。
目撃は仏性の滋養だ。
そして、
仏性が
力強くなればなるほど、
不安はいっそう
少なくなってゆく。
あなたの
仏性が成就した日、
すべての
不安は去っている。


Osho

…あなたは「もっと 愛 しなさい---」OSHO,の講話を抜粋------

…友人が OSHO 講話抜粋記事をシェアしています---ここに転載します。


多かれ少なかれ
誰の生も
恐怖に
支配されている。
なぜなら、
生を生きるには
ふたつの道しか
ないからだ。

愛に
支配されるか、
恐怖に
支配されるか。
一般的には、
愛することを
学ぶまでは、
生は
恐怖に支配される
ことになる。
愛がないときには、
恐怖の存在は
避けがたい。
それは
愛の不在にすぎない。
愛することができれば、
恐怖は消え失せる。

だから、
私があなたに言いたい
ひとつのことは、
恐怖に
注意を払いすぎては
いけないということだ。
それは
自己催眠になる。

自分は
恐怖とともに
生きているのだと
考えつづけたら…、
あなたの生は
恐怖に
支配されるようになり…
それでおわってしまう。

それが
示しているのはただ、
恐怖を消し去るのに
充分なほど
愛が強くは
なっていない
ということだ。
恐怖は
ただの症状にすぎない。
それは病気ではない。
治療法もないし…
その必要もない。
それは
ただ症状でしかなく、
それでいて
極めて有用でもある。

つまり
それが示していることは、
もうこれ以上、
生を浪費しては
いけないということだ。
あなたは
“もっと愛しなさい”
と言われている。


Osho - Hammer on the Rock

…「---決して 途中で止まってはいけない」OSHO

…友人の FB 投稿記事(講話/抜粋)を転載します。


また
人は数知れない
誘惑に惑わされては
ならない。
これが起こるのは、
静かな境地が
はじまった後、
突然
あらゆる
妄想のつながりが
続々と
現れてくるときである。
それを
打ち破ろうとしても、
どうにもならない。
その妄想を追うと、
気分が
軽くなったような
感じがする。

精神分析
道を誤ったのはここだ。
精神分析
自由連想の技法に
なってしまった。
あなたは
どこまでも
つづけてゆくことができる。
想念が
次から次へと現れ、
それが
無限につづいてゆく。

次から次へと
現れる想念から
身を引いたままで
いなければいけない。

想念はやって来て、
四方から
あなたを取り囲む。
想念は雲に似ている。
わずかに
顔をのぞかせていた
青空さえも消えてゆく。
そして
想念で
はち切れそうになると、
人は本能的に
闘いはじめる。
瞑想とは
無念無想の状態
であることを読んで
知っているからだ。
だが、
闘っても
けっして
無念無想にはなれない。
闘っても
負けるだけだ。
闘うことそのものが
敗北の原因になる。
影と闘うことはできない。
闘っても負けるだけだ。
自分の影と
闘おうとしたら、
あなたは
負けるしかない――
影が
とても強いからではなく、
影など
存在しないからだ。

存在しないものと闘って、
どうして
勝つことができるだろう?
想念は影だ。
闘ってはいけない。

闘わなければ、
もうひとつの道が
開かれる――
精神分析
選んだのはそれだ。
その場合には、
想念とともに動き、
想念を自由に漂わせ、
自由に連想を起こらせる。
ひとつの想念が
別の想念に結びつき、
またその想念が
別の想念に結びついて
次々と
連想が起こり、
それが
延々と果てしなく、
うんざりするほど
つづいてゆく。

これには
一種のくつろぎに似た
感覚がともなう。
精神分析が終わると、
人々が安堵し、
救われた気持ちになるのは
そのためだ。
救われたわけでもないし、
助かったわけでもない。
たんに闘いが
消えただけだ。

あなたが
緊張するのは
闘うからだ。
闘わなければ
緊張は消える――
そして
緊張が消えることで、
あたかも
救われたような気分になる。

ムラ・ナスルディンは、
2サイズも小さい、
きちきちの靴をはいていた。
彼は一日中不平をこぼし、
靴に腹を立てていた。
ある日、
私は彼に尋ねた。
「靴を変えれば
 いいじゃないか。
 どうして
 文句ばかり
 言っているんだい?
 誰もその靴をはけと
 無理強いしていないだろう。
 新しい靴を
 買えばいいじゃないか」
彼は言った。
「だめだ!
 絶対にいやだ!」
私は言った
「なぜだい?」
彼は言った。
「それが唯一の
 慰めだからだよ。
 一日中
 靴と格闘したあと、
 家に帰って
 靴を放り出し、
 ベッドに横になると、
 とても気分がいいんだよ!」

それは気分がいい。
想念と闘っても
勝ち目がないので、
闘うことをやめ、
想念を自由に漂わせ、
想念とともに動いてゆくと、
気分がよい。
精神分析の秘密は
ひとえにそこにある。
精神分析
まったく助けにならない。
闘いをやめさせるから、
気分がよくなるだけだ。

呂祖は言う。
「どちらも正しくない。
 闘う必要はないし、
 想念を野放しにして、
 その後を追う必要もない。
 あなたは見守る人、
 目撃者のままでいればいい」

これは
主人が
召使になってしまったことを
意味する。

想念の後を追えば、
主人が
奴隷になってしまう。

もし
このような状態に
長くとどまっていると、
幻想に満ちた
欲望の世界に入ってしまう。

主人の立場を
取りもどさなければならない。
あなたは奴隷ではなく
主人にならねばならない。
主人であるとは
どういうことだろう?

目撃者でいることが
主人であることだ。

そこにある想念を
見守りなさい。
穏やかに、
静かに、
見守りなさい。
想念が
来ては去るに
まかせなさい。
想念が
現れては消えるに
まかせなさい。

あなたは
ただ気づいている――
想念が現れ、
とどまり、
去ってゆく――

すると、
まもなく
想念が現れる回数が
どんどん減ってゆく
ポイントが来る。
そしていつの日か、
すきまが現れ……
いっさいの想念が消えている。
そのすきまのなかで、
最初の神の体験が起こる。

最善の場合には、
天国に生まれ、
最悪の場合には、
野狐の世界に生まれる。
確かに、
こういった野狐の霊は
有名な山々に住み、
風や月、
花や果実を楽しみ、
珊瑚のような樹や
宝石のような草を
楽しんでいるが、
果報が尽きれば、
再び混乱の世界に
生まれ変わるのである。

瞑想がうまく進むと、
あなたは天国に、
永遠の至福のなかに
生まれる。
しくじり、
道をはずれると……
道家では、
そうして道を
はずれることを、
最悪の場合には、
野狐の世界に生まれる、
と表現している。

野狐とは
詩人のスピリットだ。
野狐とは
空想力に富んだ
精神のことだ。
瞑想の途中でしくじっても、
何かが得られる。
あなたは樹や花、
世界やその美しさを
前よりももっと
楽しむことが
できるようになる。

だが、
やがて
瞑想によって
つくりだされた
エネルギーは尽き、
あなたは
昔の混乱に
舞いもどらざるを
えなくなる。

いいかね、
瞑想がうまく進むと、
喜びは永遠に
あなたのものになる。
だが、
失敗しても
すばらしい喜びや
詩の瞬間が
いくつかは訪れる。
瞑想を
しくじった者は
詩人になる。
瞑想を
達成した者は
見者になる。

見者は
永遠の詩人であり、
詩人は
つかのまの詩人だ。

だから、
ときどき
こういうことが起こる。
あなたは瞑想を
少しかじるが、
気分が高揚すると
やめてしまう。
あなたは
すべてが達成されたと
思い込む。

緑の樹も
赤い薔薇も
鮮やかさを増し、
恋はすばらしく、
様々なことが
起こりはじめている――
もう
面倒なことはやめよう。
だが、
つくりだされた
エネルギーは
まもなく尽きる。
あなたは野狐になる。

世界中で
薬物(ドラッグ)によって
生み出されているものは
それだ。
薬物は
野狐しか生みださない。
だが、
瞑想も、
完結しなければ、
薬物と
変わらないものになる。

ひとたび
決意したら、
全身全霊で
関わらねばならない。
あなたは
何があっても
その果てまで
行かねばならない。

それは挑戦だ。
この挑戦を受け入れ、
内なる探求の
最も美しい旅に
出かけなさい。
そして到達するまで、
台風の目に入るまで、
けっして途中で
止まってはいけない。



Osho - The Secret Of Secrets 

…愛すること---

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愛だけが
我が家(home)だ。
家が
愛に満ちてるとき
我が家になる。
そうでなければ、
それは家のままだ。
愛が触れることで、
そのすべては変容する。
愛なしでは、
人は地上の
ホームレスな放浪者だ。
愛と共にあれば、
ただちに人は
地上に根づきはじめる。
人が根づきを
感じはじめると、
中心の定まりを
感じはじめると、
人は我が家に帰る。

愛するハートは
あらゆるところを
我が家にする。
そして、
愛さないハートには
どこにも我が家がない。
人がハートに
愛を築くことなくしては、
見知らぬ人、
部外者のままだ。
私たちは
外側に
大きな城を
築くことができるが、
それが
我が家になるとは
限らない。
たとえ
小さなコテージや
小屋であっても、
あなたのハートに
愛を築けば、
あなたが愛を放つと、
それは我が家になる。

愛こそが
存在の
我が家であることを
覚えておきなさい。
その他の家は
かわいそうな
代用にすぎない。
愛はあなたの
家であるだけではなく、
あなたが
それを築いたなら、
他者の家にもなる。
そして究極には
それは神の家となる。
人の愛は
最後には
神が滞在する
寺院となる。



Osho - Turn On, Tune In And Drop The Lot

…瞑想「正しい状況 & 正しい空間」OSHO

…友人のFB投稿記事です。



この静かな境地に
入っているときには、
正しい状況と
正しい空間を
つくらなければならない。

言うまでもないことだ。
薔薇の園を
つくろうとしているなら、
土をそっくり
入れ替えなければならない。
石を取り除き、
古い根を取り除き、
雑草を
取り除かなければならない。
あなたは外界から守られた、
新しい状況と
新しい空間を
つくりださなければならない。
あなたは周囲に柵を
設けなければならない。
薔薇を栽培するつもりなら、
こうしたことを
すべて整える必要がある。

瞑想は薔薇、
最もすばらしい薔薇、
人間意識の薔薇だ。
この書物
『黄金の華、
 黄金の薔薇の秘密』
と呼ばれているのは
そのためだ。
正しい状況とは何だろう?
正しい空間とは何だろう?

世事の只なかで
坐ってはいけない。

瞑想が深まる場所を
見いださなければならない。
例えば、
映画館に行って
最前列に坐ったり、
駅に行って
プラットホームに坐るよりも、
樹の下に坐るほうが
助けになる。

いまだに
タオがあたり一面に流れ、
その波動を放ち、
脈打ち、
ほとばしっている大自然、
山々のなか、
樹々のもと、
川のそばへ
出かけていったほうがいい。

樹は
絶えざる瞑想のなかにある。
樹の瞑想は静かであり、
無意識だ。
私は樹になりなさいと
言っているのではない。
あなたはブッダ
ならなければいけない!

だが、
ブッダと樹には
共通点がひとつある。
彼は樹のように青々と繁り、
樹のように樹液に富み、
樹のように祝っている。

もちろん、
違いもある――
ブッダには意識があるが、
樹は無意識だ。
樹は無意識な状態で
タオのなかにあり、
ブッダは意識とともに
タオのなかにある。
だが、
その違いは大きい。
天と地ほどの差がある。

だが、
樹のそばで坐っていると、
まわりで
美しい鳥たちが歌い、
孔雀が舞い踊り、
流れる川のせせらぎが
聞こえてくる。
あるいは
滝のそばで坐っていると、
そのすばらしい音楽が
聞こえてくる。

自然がまだ乱されず、
汚されていない場所を
見つけなさい。
そういう場所が
見つからなければ、
戸を閉めて、
部屋のなかで坐りなさい。
もしそれができるなら、
瞑想だけをする部屋を
用意するといい。
ほんの片隅でいいから、
瞑想だけに使うようにする。

専用にするのは、
どんな種類の行為も
独自の波動を放つからだ。
そこで瞑想だけをすれば、
その場所は瞑想的になる。
毎日瞑想をするたびに、
その場所は
あなたの瞑想の波動を
吸収する。
翌日部屋に入ると、
その波動があなたに
返ってくるようになる。
それは助けになる。
それはもどってくる。
それが応えてくれる。

寺院、教会、
モスクの背景には
そのような着想がある。
その着想はすばらしい。
みんなが
祈りや瞑想に使う部屋を
個別にもつことは
できないかもしれないが、
村で専用の部屋を
設けることならできる――
人がたむろせず、
俗事が行なわれることのない、
川岸の樹々に囲まれた寺院。
瞑想がしたくなれば、
その寺院にゆけばいい。
そして
寺院にいる人の
邪魔をしてはいけないことを
みんなわきまえている。

聖地とは
瞑想にふさわしい条件を
満たした
空間に他ならない。

激しい怒りを
感じているなら、
それは瞑想に
ふさわしい時ではない。
それでは
流れに逆らうことになる。
ひじょうに貪欲に
なっているなら、
それは瞑想に
ふさわしい時ではない。
なかなか瞑想に
入れないだろう。

だが、
簡単に
瞑想に入ってゆける
瞬間がある。

太陽が昇ってゆく。
日の出を見ていると、
突然、
内側が
ひっそりと静まり返り、
まだあなたは
騒がしい街の一部ではない――
これこそ
瞑想にふさわしい時だ。

今日は気分がよく、
健やかで、
誰とも言い争いをしていない――
これこそ
瞑想にふさわしい時だ。

友達がやってきて、
あなたは
愛に満たされている――
これこそ
瞑想にふさわしい時だ。

あなたは
恋人とともにいて、
二人は
このうえもなく幸せだ――
一緒に坐って瞑想するがいい。
恋人や友人と一緒に
瞑想することができたら、
あなたは
人生で最大の喜びが
生まれているのを
見いだすだろう。

正しい状況を
見いだせない者など
ひとりもいない。
二十四時間のうちには、
たやすく
瞑想に変容できる瞬間が
何度も訪れる。
そういった瞬間には、
あなたは自然に
内側に
入ってゆきつつあるからだ。

満天の星空の夜、
大地に身を横たえ、
星を眺め、調和を感じ……
そして瞑想するがいい。


Osho - The Secret Of Secrets

…FB より転載---

OSHO:主人とは、観照しているあなたの自己だ。
痛みが来て、その後に楽しみが来る。
幸せがあり、惨めさがある。
そして、瞬間ごとに、何がやって来ようとも、
あなたはそれと同化してしまう。
あなたは客になる。主人を覚えておくがいい。
客がいるときは、主人を覚えておきなさい。

客には実に多くのタイプがある——
気持ちよかったり、嫌な感じだったり、好きな客、自分の客であって欲しくない客、いっしょに住みたい客、避けたい客——
だが、すべて客だ。

主人を覚えておきなさい。
絶えず主人を覚えておきなさい。
主人に中心を据えているがいい。
自分が主人であるということにとどまりなさい。
そうなったら、分離がある。
そうなったら、隙間が、合い間がある——橋は壊されている。
この橋が壊されるやいないや、放棄という現象が起こる。
そうなったら、あなたはそのなかにいるが、その一部ではない。
そうなったら、あなたは客のなかにいても、依然として主人だ。
あなたは客から逃げる必要はない——必要がない。

OSHO

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成果は副産物だ。
成果のことは
考えなくてもいい。
それについて考えると、
それを
得られなくなる―
それが条件だ。
成果のことを
考えてはならない。
成果のことを
考えはじめたら、
あなたは
分裂してしまうからだ。

そうなったら
修行は
中途半端なものになり、
実質のある精神(マインド)は
未来に飛んでゆく―
「どうやって成果をあげよう」
と。
あなたは
すでに成功した自分の姿を、
ブッダになった自分の姿を
夢見はじめている―
どれほどの美が、
どれほどの恵みが、
どれほどの祝福が
あなたのものになるかを。

精神が
貪欲(どんよく)さの、
野心の、
エゴのゲームを
演じはじめている。
けっして
成果のことを
考えてはならない。
成果はおのずと生まれる
副産物だ。

本当に誠実に
自分自身に
働きかけていたら、
影があなたに
つきそうように、
成果はおのずと
ついてくる。
成果をあげることを
目的にしてはならない。
呂祖が
「成否のことは
 思い煩わず、
 静かに黙々と」
 働きかけなさい」
と言うのはそのためだ。

そして、
いいかね、
成果のことばかり
考えているということは、
失敗の恐れも
念頭から離れない
ということだ。
それらはともに
連れそっている。
それらは
ひとつの包みに
入っている。
成功と失敗は
切り離すことができない。

成果のことが
頭にあるかぎり、
どこか奥深いところに
恐怖もある。
あなたがそれを
なし遂げられるかどうか
誰にもわからない。
あなたは
失敗するかもしれない。

成果を思い浮かべると
未来に連れ去られ、
貪欲さというゲーム、
自我の投影、
野望が湧き起こる。
そして
恐怖もまた
あなたに動揺を与え、
身震いさせる―
あなたは
失敗するかもしれない。
しくじる恐れがあるために、
あなたはたじろぐ。

このたじろぎ、
この欲望、
この野心を抱えながら、
静かに
働きかけることなど
できない。
その実践は
混乱したものになる。
ここで
働きかけていながら、
目は向こうを見ている。
この道を歩きながら、
目はどこか
空の彼方を見つめている。

星の研究をしていた
ギリシャ
占星術師のことを
聞いたことがある。
ある満天の星空の夜に、
彼は井戸に落ちた。
星を見ながら
歩きまわっていたからだ―
星に夢中になるあまり、
彼は自分が
どこにいるのか
忘れてしまい、
どんどん
井戸に近づいていって、
とうとう落ちてしまった。

近所に住んでいた老女が
物音を聞いて駆けつけた。
彼女は井戸をのぞき込み、
縄をもってくると、
偉大な占星術師を
引きあげた。
占星術師は
大いに感謝した。
彼は老女に言った。
「ご存じでは
 ないでしょうが、
 私は国王から
 特別に任命された
 王宮の占星術師です。
 料金は安くありません―
 大金もちだけが
 未来を占うだけの料金を
 払えるのです。
 でも、
 あなたは
 私の命の恩人です。
 明日どうぞ
 私のもとにおいでください。
 あなたの手相を読み、
 出世図を調べ、
 星占いをしてあげましょう。
 そうすれば、
 あなたの未来が
 何から何まで
 はっきりとわかりますよ」

老女は笑いだして、
こう言った。
「そんなことは
 すべて忘れちまいな。
 おまえさんは
 目の前にある井戸さえ
 見えないくせに、
 私の未来を
 占おうって言うのかい?
 まっぴらごめんだね!」

あまり先を
見過ぎてはいけない。
さもないと、
目前の一歩を
踏みそこなうことになる。
呂祖は、
成果はおのずから
やって来ると言う。
成果のことは
放っておきなさい。

この<存在>は
実に気前がよい。

報われないものなど
何ひとつない。

これがインドの
カルマの哲学のすべてだ―
何事にも善い報いか
悪い報いが
必ずついてくる。
間違ったことをすれば、
悪い報いが
影のようについてくる。
正しいことをすれば、
必ず善い報いがやって来る。

報いの善し悪しを
気にかける必要はない。
少しも考える必要はない。
あなたの意識の一片すら
それにかかずらう必要はない。
それらはやって来る―
ひとりでにやって来る。

あなたは道を歩きながら、
影がついてきているか
どうかを
確かめるために
何度も何度も
振り返るだろうか?
何度も何度も振り返り、
影がついてきているかどうか
確かめている人がいたら、
あなたは彼は狂っていると
思うだろう。

影はついてくる。
必ずついてくる。
だから、
あなたの働きかけが
正しい方向を向き、
全身全霊で、
正しい努力をもって
行なわれていれば、
成果はひとりでにやって来る。


Osho - The Secret Of Secrets