saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…FB より転載---

OSHO:主人とは、観照しているあなたの自己だ。
痛みが来て、その後に楽しみが来る。
幸せがあり、惨めさがある。
そして、瞬間ごとに、何がやって来ようとも、
あなたはそれと同化してしまう。
あなたは客になる。主人を覚えておくがいい。
客がいるときは、主人を覚えておきなさい。

客には実に多くのタイプがある——
気持ちよかったり、嫌な感じだったり、好きな客、自分の客であって欲しくない客、いっしょに住みたい客、避けたい客——
だが、すべて客だ。

主人を覚えておきなさい。
絶えず主人を覚えておきなさい。
主人に中心を据えているがいい。
自分が主人であるということにとどまりなさい。
そうなったら、分離がある。
そうなったら、隙間が、合い間がある——橋は壊されている。
この橋が壊されるやいないや、放棄という現象が起こる。
そうなったら、あなたはそのなかにいるが、その一部ではない。
そうなったら、あなたは客のなかにいても、依然として主人だ。
あなたは客から逃げる必要はない——必要がない。

OSHO

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成果は副産物だ。
成果のことは
考えなくてもいい。
それについて考えると、
それを
得られなくなる―
それが条件だ。
成果のことを
考えてはならない。
成果のことを
考えはじめたら、
あなたは
分裂してしまうからだ。

そうなったら
修行は
中途半端なものになり、
実質のある精神(マインド)は
未来に飛んでゆく―
「どうやって成果をあげよう」
と。
あなたは
すでに成功した自分の姿を、
ブッダになった自分の姿を
夢見はじめている―
どれほどの美が、
どれほどの恵みが、
どれほどの祝福が
あなたのものになるかを。

精神が
貪欲(どんよく)さの、
野心の、
エゴのゲームを
演じはじめている。
けっして
成果のことを
考えてはならない。
成果はおのずと生まれる
副産物だ。

本当に誠実に
自分自身に
働きかけていたら、
影があなたに
つきそうように、
成果はおのずと
ついてくる。
成果をあげることを
目的にしてはならない。
呂祖が
「成否のことは
 思い煩わず、
 静かに黙々と」
 働きかけなさい」
と言うのはそのためだ。

そして、
いいかね、
成果のことばかり
考えているということは、
失敗の恐れも
念頭から離れない
ということだ。
それらはともに
連れそっている。
それらは
ひとつの包みに
入っている。
成功と失敗は
切り離すことができない。

成果のことが
頭にあるかぎり、
どこか奥深いところに
恐怖もある。
あなたがそれを
なし遂げられるかどうか
誰にもわからない。
あなたは
失敗するかもしれない。

成果を思い浮かべると
未来に連れ去られ、
貪欲さというゲーム、
自我の投影、
野望が湧き起こる。
そして
恐怖もまた
あなたに動揺を与え、
身震いさせる―
あなたは
失敗するかもしれない。
しくじる恐れがあるために、
あなたはたじろぐ。

このたじろぎ、
この欲望、
この野心を抱えながら、
静かに
働きかけることなど
できない。
その実践は
混乱したものになる。
ここで
働きかけていながら、
目は向こうを見ている。
この道を歩きながら、
目はどこか
空の彼方を見つめている。

星の研究をしていた
ギリシャ
占星術師のことを
聞いたことがある。
ある満天の星空の夜に、
彼は井戸に落ちた。
星を見ながら
歩きまわっていたからだ―
星に夢中になるあまり、
彼は自分が
どこにいるのか
忘れてしまい、
どんどん
井戸に近づいていって、
とうとう落ちてしまった。

近所に住んでいた老女が
物音を聞いて駆けつけた。
彼女は井戸をのぞき込み、
縄をもってくると、
偉大な占星術師を
引きあげた。
占星術師は
大いに感謝した。
彼は老女に言った。
「ご存じでは
 ないでしょうが、
 私は国王から
 特別に任命された
 王宮の占星術師です。
 料金は安くありません―
 大金もちだけが
 未来を占うだけの料金を
 払えるのです。
 でも、
 あなたは
 私の命の恩人です。
 明日どうぞ
 私のもとにおいでください。
 あなたの手相を読み、
 出世図を調べ、
 星占いをしてあげましょう。
 そうすれば、
 あなたの未来が
 何から何まで
 はっきりとわかりますよ」

老女は笑いだして、
こう言った。
「そんなことは
 すべて忘れちまいな。
 おまえさんは
 目の前にある井戸さえ
 見えないくせに、
 私の未来を
 占おうって言うのかい?
 まっぴらごめんだね!」

あまり先を
見過ぎてはいけない。
さもないと、
目前の一歩を
踏みそこなうことになる。
呂祖は、
成果はおのずから
やって来ると言う。
成果のことは
放っておきなさい。

この<存在>は
実に気前がよい。

報われないものなど
何ひとつない。

これがインドの
カルマの哲学のすべてだ―
何事にも善い報いか
悪い報いが
必ずついてくる。
間違ったことをすれば、
悪い報いが
影のようについてくる。
正しいことをすれば、
必ず善い報いがやって来る。

報いの善し悪しを
気にかける必要はない。
少しも考える必要はない。
あなたの意識の一片すら
それにかかずらう必要はない。
それらはやって来る―
ひとりでにやって来る。

あなたは道を歩きながら、
影がついてきているか
どうかを
確かめるために
何度も何度も
振り返るだろうか?
何度も何度も振り返り、
影がついてきているかどうか
確かめている人がいたら、
あなたは彼は狂っていると
思うだろう。

影はついてくる。
必ずついてくる。
だから、
あなたの働きかけが
正しい方向を向き、
全身全霊で、
正しい努力をもって
行なわれていれば、
成果はひとりでにやって来る。


Osho - The Secret Of Secrets

…「呼吸法」

…友人の FB 投稿記事(OSHO 講話抜粋)を シェアします。



坐るときには、
瞼(まぶた)を下げて、
下げ振りをつるすように
視線を定め、
光を下方に向ける。
しかし、
下にうまく注意を
向けられないときには、
呼吸に耳を傾けるように
ハートを導く。
出入りする息の音が
聞こえるようではいけない。
聞こえるのは乱れた息である。
息が乱れると、
たちまち呼吸は荒く、
うわついたものになり、
伸びやかに広がってゆかない。
こころを
ひじょうに軽やかで
微細な状態に
しなければならない。
枷(かせ)を
解かれれば解かれるほど、
こころの働きは
微(かす)かになり 、
微かになればなるほど、
こころは静かになってゆく。

だから
呼吸に耳を澄ませなさい。
音が聞こえるのは、
息が荒いということだ。
乱れているのは、
息が荒いということだ。
感じるだけで
音がしなければ、
呼吸は穏やかで
静かになっている。

それが
<存在>と調和し、
自分自身と調和し、
実在と調和する正しい方法だ。
呼吸が静かになればなるほど、
あなたはさらに
深みへと入ってゆく。

ときどき呼吸が止まると……
呼吸は実際に
止まることがある!
それはここで
多くのサニヤシンに起こっている。
彼らは私に知らせにやって来る。
なぜなら、
彼らはひどく
おびえてしまっているからだ。
呼吸が止まると、
自分は死んでしまうという考えが
脳裏をよぎる。

先日、
サグナが質問をした。
彼は死んでゆくような
気分になったという。
彼はおびえてしまった。
おびえてはいけない。
呼吸が止まったら、
そのままにして、
それを楽しみなさい。
あなたは
死んだりはしない。
そのまさに
呼吸が止まることで、
あなたは実在の
真の姿を知るだろう。
永遠の生を知るだろう、
死を知らないものを
知るだろう。

不意に
こころは
限りなく静かになって、
動きを止める。
そうなったら
真の呼吸が出現し、
こころの真の姿が
意識されるに
到ったのである。

そのままに
しておくことができれば……。
だから
私はサグナに言った。
「サグナ、馬鹿だね。
 君は取り逃がしてしまった!
 今度それが起こったら、
 取り逃がさないように」

呼吸が止まれば、
真の呼吸が出現し、
真の生命が現れる。
呼吸に依存しない生命、
永遠の生命、
肉体の一部ではなく、
肉体が崩れ、
塵(ちり)となって消えた後にも
残る生命が。

そしてその瞬間に、
意識が達成される。
人はブッダになる。
ブッダとは
完全に意識的になった、
目覚めた人のことだ。

ハートが軽やかであれば、
息も軽やかになる。
それは
こころのあらゆる働きが
気(呼吸エネルギー)に
影響を与えるからだ。
息が軽やかであれば、
こころも軽やかになる。
それは気のあらゆる動きが
こころに影響を与えるからだ。
こころを安定させるには
気を養うことから
はじめなければならない。
こころに
直接働きかけることは
できないからだ。
それゆえに
手がかりとして
調息法を用いる。
これが
「気の力を集中して保持する方法」
と呼ばれているものだ。
弟子たちよ、
おまえたちは"動き"の本性を
理解していないようだ。
動きは外界の事物によっても
引き起こされる。
それは支配される
ということに他ならない。
坐るだけで
こころが揺れ動くなら、
身動きしないことによって
それを鎮めることは
できないだろうか?
こころと気が
相互に
影響し合うことを知った
偉大な聖者たちは、
後世の人々に役立つよう、
より簡易な方法を
考案したのである。

あなたは
それを知っている。
走れば、息は激しく乱れ、
どんどん速くなってゆく。
ヨーガの各種の体位は
そのためにある―
例えば完全な蓮華座。
背筋をまっすぐ伸ばして坐り、
完全に沈黙して、
大理石の彫像に
なってしまったかのように、
不動の姿勢を保つ。
それはランニングとは
まったく逆の姿勢だ。

これは呼吸を静めるための
外的な手段にすぎない。
走ることで
呼吸を速めることができるなら、
仏像とそっくりな姿勢で
坐ることで、
それを鎮静させることも
できるはずだ。

身動きせず、
仏像のように坐っていれば、
確かに呼吸は
だんだんゆるやかになってゆき……
やがて止まる。
最初はほんの一瞬にすぎない。
心臓発作(ハートアタック)か何かに
襲われたのではないかと
恐れる必要はない。
それは
神の到来(ゴッド・アタック)だ。


Osho - The Secret Of Secrets 

…全面的な 明け渡し------

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純一なハートで
決然と実行しなければならない。
そうすれば成果は求めずとも、
おのずからやって来る。

もっとも重要なのは、
成果を求めている者は
すでに
分裂しているということだ。
そうなったら、
あなたのハートは働いていない、
すでに
成果に目を奪われている。

分裂していたら、
成果をあげることはできない。
成果をあげられるのは、
ことの成り行きや結果を気にせず、
旅そのものを
このうえもなく楽しみ、
目的地のことなどかまわずにいられる
分裂していないこころだけだ。

ゴールのことなど
まったく気にかけない者だけが
たどり着く―
彼らのマインドは
少しも分裂しておらず、
旅の一瞬一瞬が、
旅の一歩一歩が
ゴールになるからだ。
どこいいようと、
自分がいるところが
ゴールになる。
成果のことなど
まったく気にかけない
スピリチュアルな道の上にいる人々が
成果をあげる。

成果を気にかけていたら、
成果をあげることはできない。
思考が未来のどこかにあって、
あなたは
現在で働いていないからだ。
そして、
仕事が現在において
全一に為されてはじめて、
成果をあげることができる。

この瞬間が
次の瞬間を生んでゆく。
この瞬間が
全一に生きられたなら、
次の瞬間は必ず
より深い全一性を、
より高い全一性の質を
おびるようになる。

だが
人々は分裂したままだ。
この問題は考察するに値する。
なぜなら、
これは
すべての人の問題だからだ。

先日、
アショカが手紙を書いてきた。
彼はここにいるが、
まだ部屋に
サティヤ・サイババの写真を
飾っているそうだ―
部屋に
誰の写真を飾ってもかまわないが、
それはたんなる部屋の問題ではない。
さあ彼は悩んでいる。

私は彼に言った。
サティヤ・サイババのところへ
 行きなさい。
 そして、
 どうか向こうでは
 私の写真を
 部屋に飾らないでほしい。
 そうしないと、
 あなたはまたもや
 取り逃がしてしまうからだ。
 ここにいてもいいし、
 あちらにいてもいいが、
 大切なのは純一なハート、
 まとまりをもったこころだ。
 半身でいるくらいなら、
 私とともにいるよりも
 サティヤ・サイババのもとに
 いるほうがいい」

だが、
私には彼の問題がわかる。
彼は向こうでも
私の写真を離さないだろう。
だから、
彼がしくじるのは
目に見えている。

人は選ばなければならない。
人は決断しなければならない。

人生の旅路を一歩進むごとに、
人は岐路に立たされ、
選ばなければならなくなる。
すべての道を
わがものとすることは
できないし、
すべての道を歩くことは
できないからだ。
私はものごとの善し悪しを
云々しているのではない。
何であれ、
あなたが全身全霊で選んだものが正しい、
と私は言っているのだ。

ときには
全面的な明け渡しがあったがゆえに、
光明を得ていない師のもとですら
弟子が光明を得たことがある。

そして
申し分のない師のもとにいながら
何ごとも起こらないということも
往々にしてある。

師が完全であるか否かよりも、
弟子の全一性のほうが問われる。

間違った人物のもとにいても、
あなたは変容を遂げうる。
その間違った人物でも
あなたを変容させられる
というのではないが、
あなたに
全一な決断があれば、
そのあますところのない決断が
あなたを変容させる。
そのことのほうが
はるかに重要だ。

それがなかったら、
仏陀のような人と
ともにいることができても、
あなたが半身にとどまり、
分裂しているなら、
何ごとも起こらない。
いかなる分裂も―
未来と現在、
目的地と旅、
この道とあの道、
この師とあの師―
分裂はどれもみな危険だ。
そうなったら
あなたのエネルギーは
無駄に費やされ、
あなたは責任を
他人に転嫁するようになる。

たとえば、
ここでアショカに
何も起こらなかったら―

こんなやり方では
何ひとつ起こるまい―
当然、
彼は間違った場所にきてしまったと
結論づけるだろう。
彼は自分が分裂しているという
ポイントを見ようとしないだろう。
彼には、
間違った場所にきてしまった、
「この場所は私には向いていない」
ということだけしか見えない。
だが、
自分が分裂しているかぎり、
どこにいても、
同じことが何度も何度も
くり返し起こるだろう。

勇気を奮い起こしなさい。
私はマインドが
ずる賢く振る舞いたがるのを
知っている。
頭は言う。
「両方
 とっておけばいいじゃないか。
 何が起こるかわからないぞ。
 どちらも選べるように
 しておくんだ。
 こっちがうまくゆかなくても、
 あっちがうまくゆくかもしれない」

だが、
生はそのようには動かない。
ケーキを食べながら
取っておくことはできない。
それは不可能だ。



Osho - The Secret Of Secrets 

「生を 祝いなさい---」OSHO,

…友人の FB投稿記事です。

 

Osho、
なぜ私は
いつもお金のことを
考えているのでしょう?



他に何を
考えることがある?
お金は力だ。
誰であれ、
お金のことを考えている、
心配することはない。
たとえ、
別の世界を
考えている人たちでさえ...、
彼らは違ったコインを
持っているだけで、
彼らもまた
お金のことを考えている。
お金は力のあらわれだ、
お金で
力を買ってるというわけだ。

あなた方の聖者もまた
お金のことを考えている。
彼らはそれを徳と呼んでる。
徳によって、
あなたはよい家をよい車を、
よい女性を
天国に買うことができる。
そんなに貪欲な人々は
多くはない、
彼ら以外は
流動的なこの世界のなかで
お金のことを考える。
もっと貪欲な人たちが少し居て、
別の世界でのことを考える。
そしてもしあなたが
徳はパラダイスをもたらすと
考えているなら、
それはお金に他ならない?

人がお金のことを
考えるのを止めるのは、
彼が今現在を
生きはじめたときだ。
お金は未来だ。
お金は未来のセキュリティだ。
未来の保険だ。
もしも、
あなたが
貯蓄を持っていれば、
あなたの未来は安全だ。
もしも、
あなたが
よい性質を持っていれば、
たとえ死後の世界でも安全だ。

世界はまるごとお金に
置き換えられようとしている。
政治の力を考えている者は、
お金に置き換えられる。
なぜなら、
お金は
力の象徴にすぎないからだ。
そういうわけで、
あなたがたはもっともっと
お金を集めはじめる。
しかし、
もっともっとに
留まることによって、
欲望があなたから
離れていくことはない。
なぜなら、
力への渇きは限りがなく、
終わりがないことを
それは知っている。
そして、
人々が力を渇望するのは、
内面の空虚さからだ。
なんとしても彼らは
この空虚さを
何かで埋めようとする、
それが、
おそらくお金、力、名声、
世間体、人格、徳だ。
彼らはその内なる空虚さを
埋めようとする。

世界には
2つのタイプの人が居る。
内なる空虚さに
詰め込もうとする人たちと、
とても稀な人たちだが、
その内なる空虚さを
見ようとしている人たち。
詰め込もうとするものは、
空虚なままで、
欲求不満なままに留まる。
彼らは、
がらくたを溜め込みはじめる、
彼らの生涯は無駄で、不毛だ。
唯、もうひとつの、
とても希少な
内なる空虚さに
どんな欲望もを
詰め込もうとしないで、
覗く人たちは瞑想者になる。

瞑想とは
あなたの
内なる空虚さを覗くことだ、
それを招くこと、
楽しむこと、
それと共に存在すること、
満たすべきどんな欲望もなく、
そんな必要はない、
なぜなら、
それは既に満たされている。
それが空虚に見えるのは、
あなた方が正しくそれを
見ていないからだ。
あなたは
マインドをとおして
それを見ている、
それは間違いだ。
もしもあなたが
マインドを脇に置いて、
空を覗いたら、
それは途方もなく美しい。
それは神聖であり、
それは喜びであふれている。
他に必要なものなどない。
そのときには、
人はお金のことを
考えるのは止める。
力について
考えるのを止め、
パラダイスについて
考えるのを止める。
なぜなら、
彼は既にパラダイスに居る。
なぜなら、
彼は既に豊かだ。
なざなら、
既に力に満ちている。

しかし通常、
ラムダス、
それはあなただけに
起こったことではない。
誰もが何らかのお金について
考えている。

ふたりの母親が話している。
ひとりがもうひとりに言う。
「長い間、見なかったね。
 息子さん元気、
 どうしてるの?」

彼女が答える。
「私の息子は
 ハリウッドの有名な俳優になって、
 財産をつくったわ。
 彼は30万ドルの家を建てているところよ。
 あなたの息子さんはどうされてるの?」

もう一方の母親が言った。
「私の息子の方が
 もうちょっとましにやってるわ。
 彼はゲイでハリウッドに住んでる。
 彼は俳優と30万ドルの家に
 引っ越したところよ。」

・・・

人々はお金、お金、お金と
考え続けている。
なにもあなたが、
特別なことではない。
ラムダス、
あなたは、
誰もが神経症という意味で
普通の異常者だ。
しかし、
どうかこの神経症から
出てきなさい。
この瞬間を生きなさい。
未来を、
そしてお金の魅力を、
落としなさい。
瞬間をトータルに、
ゆだねて、
他の瞬間など
やってこないかのように、
これが
最期の瞬間であるかのように
生きなさい。
そのとき、
お金と力に対する
すべての欲望は
あなたを離れる。

もしも
突然あなたが
今日死ぬことを知れば、
何が起こるだろう?
あなたは
お金に興味をもったままで
居られるだろうか?
突然すべての
お金に対する欲望が離れる。
もしも今日が最期の日なら、
あなたは明日を考えることに、
この世界でよりお金を得ることに
浪費することはできない。
来るべき明日はない。

私たちは明日を生きるから、
お金はとても重要になる。
そして、
私たちは生きることがないから、
お金はとても重要だと、
他人をまねることができる。
いつか家を建てる、
そして今、
あなたは
とてもまずい感じでいる。
あなたは
数日まえのあなたの家に
まったく
満足ができないだろう。
今やひとは
より大きな家を建てた。
比較が現れた、
それは傷つける、
それは
あなたのエゴを傷つける。
あなたはより多くの
お金を欲するだろう。
誰かが、何かをし、
あなたのエゴが邪魔される。
比較することを落としなさい。
生は本当に美しい。
比較することを落としなさい。
すると、
あなたは生をいっぱいまで、
楽しむことができるだろう。
そして
生を楽しんでいる人は
所有する欲望を持っていない。
彼は買うことのできない、
楽しむことの価値を、
生のリアルなものを知っている。

愛は買えない。
もちろん、
セックスは買えるだろう。
そして、
愛が何かを知った人は、
お金を楽しむことはできない。
しかし、
愛が何かを知らないなら、
お金の楽しみに向かうことに留まる。
なぜなら、
お金はセックスを買える。
セックスが彼の知るすべてだ。
星の多い夜を買うことはできない。
星がいっぱいの夜を
楽しむことを知ってるひとは、
より多くのお金に
悩まされることはない。
沈む夕日を買うことはできない。
もちろん
ピカソを買うことはできる。
沈む夕日を楽しむことを
知ってるひとは、
絵画を買うことを
楽しむことはない。
生はそのような絵画だ、
そのように動き、
そのように生きた絵画だ。
しかし、
沈む夕日を
どのように見るかを
知らないひとは、
巨万のドルをピカソに払い
購入する用意がある。
彼らは
何にぶらさがっているのかも、
上下逆さまなのか、
正しい向きなのかをも知らない。
しかし、
他人に
ピカソの絵画を持ってることを
示したい。

聞いた話だが、
裕福な男が
ピカソのところにやって来た。
早速、
彼は絵画をふたつ欲しがった。
そして、
いくらでも払うからと強要した。
ピカソは、
絵画がひとつしかなかったので、
彼が払うことができないと考え、
法外な価格を要求した。
しかし、
裕福な男は払う用意があった。
そんなわけで
ピカソは、中に入って、
キャンバスをふたつに切った。
裕福な男は
それをふたつの絵画だと思った。

もうひとつ聞いた話がある。
展覧会で、ピカソの展覧会で、
人々は彼の絵画を正当に評価した。
すべての評論家が
そのもっとも不条理な絵画を
取り囲んだので、
もっとも人々に受け入れられた。
何かが不条理なとき、
あなたの理解力が試される。
すべての評論家は
それが何か理解するのを、
解き明かそうと試みた。
そんなとき
ピカソがやって来て
「待って、
 どこかの愚か者が
 上下さかさまに掛けている。
 まず、
 最初に直させてください。」
そして、
彼らは絵画について
好意的な論評をした。

もしも、
あなたがバラの花を
楽しむことを知るなら、
中庭の緑の木々を、山々を、
川を、星を、月を、
もしも、
人々を楽しむことを知るなら、
あなたは
お金に取り付かれないだろう。
強迫観念は
祝祭という言葉を
忘れてしまったことから起こる。
というわけで、
お金は、
あなたの生は
それほど空虚だと
自慢するものに
なってしまった。
私はあなたに
お金を放棄するように言わない。
時代を遡って
それはあなたがたに
言われ続けて来た。
それは、
あなた方を変えなかった。

私は何かほかのことを言おう。
生を祝いなさい、
すると
お金に関する強迫観念は
自動的に消えていく。
そして
それがそれ自身の
調和にあるとき、
それは
傷つけることなく離れていく。
それは、
傷をのこさず離れていく。
それは、
痕跡をのこさず離れていく。


Osho - The Book Of Wisdom

…「笑いは 祈りと同じぐらい 神聖なものだ」OSHO

…友人のFB 投稿記事を 転載します。
 


その通りだ。
愉快なことではあるが、
誰かがそれを
始めなければならない。
私たちは
世界が
これほど深刻ではなく、
もっと
感受性豊かになってほしい。
誠実であるのはもちろんだが、
けっして深刻ではなく――
私たちは世界に、
ユーモアの感覚は
宗教的な人間の
もっとも基本的な
資質のひとつだということを
学んでほしい。

もし
笑うことが
できなかったら、
あなたは
生の多くのことがらを
見逃す、
多くの神秘を見逃す。
笑いは、
あなたを
幼い無垢な子どもにする。
笑いは、
あなたと存在を結びつける――
とどろく大海を、
星たちと彼らの沈黙を、
あなたと結びつける。

笑いは、
あなたを
世界の孤独な吟遊詩人、
知性の育った吟遊詩人にする。
とういうのも、
笑えるのは
知性のある人びと
だけだからだ。
動物たちに
笑う余裕がないのは
そのためだ――
彼らには
それだけの知性がない。

試してみるといい――
バッファローに冗談を言って、
どうなるか見てごらん。

が、
尊敬されるには
まず深刻さこそが
欠かせないものだ、
とつねに
教えられてきたために、
誰もが深刻になってしまった。
彼らが深刻なのには、
なにか
理由があるわけではない。
だが、
その深刻さが
今では彼らの
第二の天性になっている。
彼らは、
深刻さは
病気だということを
完全に忘れている――
深刻さとは、
ユーモアの感覚が
自分の中で死んでいることを
意味しているのだ、
ということを。

さもなければ、
生全体はまわり中、
愉快なことで
満ちあふれている。
もしあなたに
ユーモアの感覚があったら、
悲しくなっている時間など
ないことに驚くだろう――
あらゆる瞬間ごとに、
あらゆるところで、
なにかしら起こっている。

私の使命は確かに、
人類全体に
笑いをもたらすことだ――。
人類は
笑いを忘れてしまっている。
そして笑いを忘れたら、
あなたはいつも歌を忘れ、
愛を忘れ、
ダンスを忘れる――

笑いだけを忘れる
というわけではないのだ。
笑いは、
いくつかの資質が
独自に組み合わされているものだ。
深刻さも
いくつかの資質が
独自に組み合わさっているように――。

笑いを忘れたら、
あなたは愛を忘れる。
悲しい顔をして、
女性に「愛してるよ」なんて
どうして言えるかね? 
少しは笑わなくてはいけない。
深刻な顔をしていては、
ちょっとしたことすら言えない。
人びとはすべてを
あまりにも深刻に取りすぎるから、
それが重荷になる。
もっと笑うことを
学ぶがいい。
私にとって、
笑いは祈りと同じくらい
神聖なものだ。



Osho - Sermons in Stones

…友人のFB 投稿記事を転載---OSHO の講話(抜粋)です。

エクスタシーは
人間が完全に
忘れてしまっている言葉だ。
彼はそれを忘れるように
強いられてきた。
彼はそれを忘れるように
強制されてきた。
社会はそれに対立し、
文明はそれに対立している。
社会は惨めさに
この上もない投資をしている。
それは惨めさに依存し、
惨めさを食糧とし、
惨めさによって
生き延びている。
社会は
人間のためにはない。
社会は人間を、
それ自体の手段として
利用している。
 
社会のほうが
人間よりも
重要になってしまった。
文化、文明、教会と
いったもののほうが
重要になってしまった。
それらは
人間のためのもの
だったはずだが、
いまや
人間のためにはない。
それらは
ほとんど全プロセスを逆行し、
いまや
人間がそれらのために
存在している。
 
子どもはみな
エクスタシーに満ちて
生まれてくる。
エクスタシーは自然なものだ。
それは
偉大な賢者たちにだけ
起こるものではない。
それは誰もが世界に
持ち込んでくるものであり、
誰もがそれと共に
生まれてくる。
それは
生のもっとも奥深い核だ。
それは
生きているということの一部だ。
生はエクスタシーだ。
子どもはみな
それを世界に持ち込んでくるが、
そこで
社会が子どもに飛びかかり、
エクスタシーの可能性を
破壊しはじめ、
子どもを惨めにし、
子どもを
条件づけするようになる。
 
社会は神経症的であり、
エクスタティックな人びとが
ここにあることを許せない。
彼らは社会にとっては危険だ。
その仕組みを
理解しようとしてみなさい。
そうすれば
ものごとは
もっと簡単になるだろう。
 
エクスタシーに満ちた人を
コントロールすることは
できない。
それはできない相談だ。
コントロールできるのは
惨めな人間だけだ。
エクスタシーに満ちた人は
いつも自由を失わない。
エクスタシーとは
自由であることだ。
彼を奴隷の境遇に
おとしめることはできない。
彼はそう簡単には
叩きつぶされないし、
彼を牢獄に住むように
強いることはできない。
彼は星々のもとで
踊りたがるだろうし、
風と共に歩きたがるだろうし、
太陽や月と話をしたがるだろう。
彼は広大なもの、
限りなきもの、
巨大なもの、
測り知れないものを必要とする。
彼を暗い独房のなかで
暮らすよう
誘うことはできない。
彼を奴隷にすることはできない。
彼は自分の人生を生きて、
自分のしたいことをする。
これは社会にとっては
じつに厄介なことだ。
多くのエクスタティックな
人びとがいたら、
社会は崩壊してしまう、
その屋台骨は
持ちこたえられないと感じる。
 
エクスタティックな人びとは
反逆者だ。
いいかな、
私はエクスタシーに満ちた人を
「革命家」ではなく
「反逆者」と呼ぶ。
革命家とは
社会を変革しようとする人だが、
彼はそれを別の社会で
置き換えようとする。
反逆者は個人で生きようとし、
世界に固定した
社会構造があることを望まない。
反逆者は
この社会を別の社会と
置き換えることを
望んではいない。
なぜなら、
社会というものが
すべて同じであることは
明らかだからだ。
資本主義者と共産主義者
全体主義者と社会主義者は
みな従兄弟の関係にある。
彼らのあいだに大差はない。
社会は社会だ。
教会というものはみな同じだ――
ヒンドゥー教であろうと、
キリスト教であろうと、
イスラム教であろうと。
 
構造が
いったん権力を握ってしまうと、
それは人びとが
エクスタシーに満ちることを
許さない。
なぜなら、
エクスタシーは
構造に反しているからだ。
よく聴いて、
この言葉に
瞑想してみるといい――
エクスタシーは
構造に反している。
エクスタシーは
反逆的であって、
それは
革命的ではない。
 
革命家は
政治的な人間だ。
反逆者は
宗教的な人間だ。
革命家は別の構造を、
自らが欲したものを、
自らのユートピアを望むが、
構造というものはみな同じだ。
彼は権力の座に就きたい。
彼は圧政者にはなりたいが、
しいたげられる人には
なりたくない。
彼は搾取者にはなりたいが、
搾取される側には回りたくない。
支配はしたいけれど
支配されたくはない。

反逆者は
支配したくはないし
支配されたくもない人だ。
反逆者とは
世界に
いかなる支配体制も
望まない人だ。
反逆者はアナーキーだ。
反逆者とは
人間がつくった構造ではなく
自然を信頼し、
自然なものが
損なわれなければ
あらゆるものは
美しくなると信じている人だ。
そして、
それはほんとうだ!
 
これほどの広大な宇宙が
いかなる政府もなしに
動いている。
動物たち、小鳥たち、樹々、
あらゆるものが
いかなる政府もなしに
動いている。
なぜ人間には
政府が必要なのか? 
なにかが
間違っているに違いない。
なぜ人間は支配者なしでは
生きられないほど
神経症的なのか?

いまや
それは悪循環になっている。
人間は支配者なしでも
生きられるが、
彼は一度も
その機会を
与えられたことがない――
支配者はあなたがたに
いかなる機会も
与えようとはしない。
ひとたび
支配者なしでも
生きられることを知ったなら、
誰が彼らの存在を望むだろう? 
誰が彼らを支持するだろう? 
たったいまあなたがたは
自らの敵を支持している。
あなたがたは
自らの敵に投票している。
二人の敵が
大統領選挙に立候補して、
あなたがたはそれを選ぶ。
どちらも同じだ。
それはまるで
監獄を選ぶ自由、
入りたい監獄を選ぶ自由を
与えられているようなものだ。
しかもあなたがたは
うれしそうに投票する――
僕はAかBの監獄に入りたいんだ、
私は共和党の監獄を信じる、
僕は民主党の監獄を信じる、
と。
だが、
どちらも監獄だ。
そしていったん
監獄を支持してしまうと、
監獄は独自のやり方で
働きかける。
そうなったら
監獄は
あなたが自由を味わうことを
許さない。
 
だから、
子どもはごく幼い頃から
自由を味わうことを許されない。
なぜなら、
いったん自由というものを
知ってしまったら、
彼は譲歩しようとはしないし、
妥協しようとはしないし、
暗い独房のなかで
暮らそうなどという気は
さらさら起こさなくなるからだ。
たとえ
死を選ばなければ
ならないとしても、
彼は誰かが自分を
奴隷の境遇に
おとしめることを許さない。
彼は自己を主張するだろう。
もちろん彼は
ほかの人びとに対して
権力を振るうことに
興味を持つことはない。
そういったものは
神経症的な傾向だ。
人びとに対して
権力を振るうことに
興味を持ちすぎていることは、
あなたは
深いところでは無力であり、
権力を持たない限り
ほかの人びとに
圧倒されてしまうのではないかと
恐れていることを示している。
 
マキャヴェリ
「攻撃こそ最大の防御なり」
と言っている。
自分を守るには
先制攻撃をしかけるのが
いちばんいい。
東洋であれ西洋であれ、
世界中のいわゆる政治家たちは
深いところでは
ごく弱い人びとであり、
劣等感にさいなまれており、
政治的な権力を持たない限り
誰かに
搾取されてしまうのではないか、
搾取されるぐらいなら
搾取するほうがましだと
考えている。
搾取される者も
搾取する者も、
どちらも
同じ船に乗っており、
どちらも
その船を助け、
その船を守っている。

子どもがいったん
自由の味を知ってしまうと、
彼は二度と社会の、教会の、
団体の、政党の一員にはならない。
彼はひとりの個人にとどまり、
自由なままでいて、
自分のまわりに
自由の躍動感をかもし出す。
彼の存在そのものが
自由への扉になる……。
 
いつであれ
子どもが幸せを感じていると、
なにをやっているときであれ、
かならず誰かがやって来て
彼を止めてしまう――
「そんなことをしてはいけない!」
と。
だんだんと子どもは
「僕が幸せを感じることは
 間違っているんだ」
と理解するようになる。
そしてもちろん、
彼は他人がしろと
命じたことをやっても
少しも幸せを感じない。
それは彼のなかから
自然に湧き起こってきた欲求では
ないからだ。
それで
彼は惨めと感じることが
正しいのであり、
幸せと感じることは
間違っているのだと
知るようになる。
そういった
深い連想が生まれてくる。
 
学校の教室の外で
ふいに一羽の小鳥が
歌いはじめたら、
もちろん、
子どもは一心に
その小鳥の声に耳をそばだてる――
醜いチョークを持って
黒板のそばに立っている
算数の教師ではなくて。
だが、
教師のほうが小鳥よりも力を、
政治的な力を持っている。
確かに、
小鳥には力はないけれど、
美しさがある。
小鳥は
「よく聞け!
 これに集中しろ!」
と頭を叩くことなしに
子どもを魅きつける。
単純に、自発的に、自然に、
子どもの意識は
窓の外へと流れ出してゆく。
それは小鳥のもとへと至る。
彼のハートはそこにあるが、
目は黒板のほうを
見なければならない。
見たいようなものなど
なにもないが、
そのふりを
しなければならない。
 
幸せであることは
間違っている。
幸せになるたびに、
なにかが
間違っているのではないかと
子どもは恐れるようになる。
 
子どもが
自分の肉体と遊んでいたら、
それは間違ったこととされる。
子どもが
自分の性器と遊んでいたら、
それは間違ったこととされる。
それは子どもの生にとっては
もっともエクスタティックな
瞬間のひとつだ。
彼は自分の肉体を楽しむ。
それは
わくわくするような体験だ。
だが、
すべてのわくわくする感じは
切り捨てられなければならないし、
すべての歓びは
打ち壊されなければならない。
それは神経症的だが、
社会は神経症的だ。
 
両親たちにも
彼らの両親から
同じことがなされた。
彼らは子どもたちに
同じことをやっている。
このようにして、
ひとつの世代が
次の世代をだめにしてゆく。
このようにして、
私たちは神経症
ひとつの世代から
次の世代へと伝えてゆく。
地球全体が
精神病院になっている。
誰もエクスタシーというものを
知らないように見える。
それは失われている。
障壁に次ぐ障壁が
つくりだされてきた。


Osho - Ecstasy: The Forgotten Language